む、この匂い……!
卵と砂糖、牛乳を混ぜ、そこに食パンを浸して、両面にこんがりと焼き目が付くまでじっくりと焼いて、最後にメープルシロップをかけたような……。そう、この少し香ばしくもあま~い匂いの正体はまさしく……。
「お帰りなさい! 今日のおやつはフレンチトーストだよ♪」
あぁ、やっぱり……。
小学生の帰宅時間である平日の15時にも関わらず、家の駐車場に車があるのを見て察した。そして、“今日のおやつはフレンチトースト”という事実に、察したものは確信へと変わった。
「お父さん、仕事辞めてきたんだ……」
フレンチトーストは、スイーツ作りに慣れていない私の父親が、唯一得意とするおやつであった。

技術や経験があり、プライドも高い父は、どうも長く仕事が続かない

私の父は、あまり仕事が長く続かない。有名大学を卒業して、色んな技術や経験を持っていて、それゆえプライドなんかも高くて、目上の人にも屈せず意見して、そこから争いが勃発して……。
こんな感じであるから、どうも長く仕事が続かない。職場でとても頼りにされているというような話もたまに聞いていたのだが、それを良しとしない人がどこの職場にもいるようであった。
当時小5であった私は、父親のことが大好きだった(もちろん今もだが)。
自分の父親だからと擁護するわけではないが、父親の職場の人たちよ、いい大人が他人を妬み嫉むなどみっともないぞ。恥ずかしくないのかい。そんな人間がいるところ、辞めて正解だ、父よ。もっとちゃんと、父のことを評価してくれる人がいるところで働いてもらえた方がいい。
それに、父と一緒にいられる時間が増えるのは単純に嬉しい(失業してるだけだけど)。父にも、少しはゆっくりと休んで欲しい(失業してるだけだけど)!いいぞお父さん、辞めちまえ、そんな職場(失業になるだけだけど)!!……等と思っていた当時。

複雑な気持ちが重なりながら、父の作ったフレンチトーストを口に運ぶ

そんなつもりではなかったのだが、やはり自分の親となると、是が非でも擁護したくなってしまうようだ。毎回そんな風に、『絶対に父の味方でいる!』と決意するような気持ちと、今後の生活に対する若干、いや、なかなかに大きな不安を抱きながら、父の作ったフレンチトーストを口に運んでいた。

「こんな呑気に紅茶なんて飲んでる場合じゃないのにねえ!!」
語気を強めて祖母が言う。
「分かってるよ……。大丈夫だよ、今は楽しく食べようよ」
食いぎみに父が言う。こういうときの父は、弱々しい笑顔を作って、少しだけ悲しそうな声で話す。
「……あ!今日ね、体育の授業でハードル走したんだけど、その時にね……」
こんなときに私が出来ることは、話題を変えて、少しでも場を明るくしようと振る舞うことくらいである。
家族もそんな私の思いを知ってか知らずか、私が話し出すと、それ以上暗い話を持ち出すことはなかった。

2か月後、仕事をやめる。やめたその日にフレンチトーストを作りたい

来年の1月、私は今の仕事をやめる。ちょうど1年勤務した。仕事の続かなさは父親譲りなのかもしれない。
2ヶ月後、仕事をやめたその日に、フレンチトーストを作ろうと思う。紅茶をお供に、父が作っていたものよりは、少し甘さを控えめに。果物やバニラアイスなんかもトッピングしてやろうかしら。
思い切り食らいついて、というよりは、今の職場での出来事を一つ一つ思い出しながら、ゆっくりと……。
「あの時の父親も、こんな気持ちだったのかな……」なんて考えながら、ゆっくりと……。

「さて、あと2ヶ月、今の職場でやりきってやりますか……!」
仕事を2か月後にやめる今の私の気持ちだ。仕事をやめる2ヶ月前、父も、こんなことを思っていたのだろうか。どうかあと2ヶ月後、フレンチトーストを、小さな達成感と共に食べることが出来ますように。