高校を卒業して浪人生になった私は、ようやくスマートフォンを所持することを許された。
本当は大学の合格祝いとして買ってもらえる予定だったのだが、父は「滑り止めは受かってたから……」と最新のiPhoneを買い与えてくれた。
その時に始めたinstagramのアカウントは、およそ9年経った今でも稼働していて、投稿数は今では千枚を超えている。当時は写真にエフェクトをつけておしゃれに見えるように仕上げていたけれど、最近ではiPhoneで撮れる写真の画素数がどんどん上がっているし、一眼レフで撮影したものもあり、ほとんどエフェクトなしの写真ばかりで、まるで日記のように使用している。
もちろん、他にもあらかたのSNSはしていた。
FacebookにTwitter、韓国アイドルにハマっていた時はweiboもしていたけれど、Twitterは実名でするのはやめてしまったし、Facebookは時々更新するだけの、季節のお便りのような存在になってしまっている。
私がinstagramを始めた時は、まだ「インスタ映え」なる単語も存在していなかったし、周囲にアカウントを持っている人が少なかったから、少ないコミュニティでごく近しい人たちと日常の写真を共有する程度だった。
けれど徐々に流行り出してからは、少し窮屈な思いをすることも次第に多くなった。
結婚式の写真で溢れるタイムラインにずいぶん参ってしまった
仲良くもない人にフォローされてしまった時の不愉快さ、情緒不安定な投稿や、ストーリーという機能が出来てからの知りたくもない人のリアルタイムの情報が目に入ってくる憂鬱さ。
最近見ていて辛かったのは、延々と続けられる結婚式の写真である。結婚式の時系列に沿って、1日にたくさん投稿されてしまったから、タイムラインが彼女の幸せそうな写真で溢れかえっていた。
それが一人だったり、親しい友人であれば良かったのだけれど、そこまでの仲の人たちが何人もそんなことをしたので、ずいぶん参ってしまった。
ある子などは、結婚式の写真が何ヶ月間にも渡りタイムラインに出現するので、「いいねをしていないから、少し前の投稿でも流れてくるんだろうか」と思って彼女のアカウントを見に行ってみると、投稿は1日前となっていた。
結婚式というのは、そんな何ヶ月間も余韻に浸れるものなのか。それとも、自慢がしたくてしょうがないのか、一体どちらだ?
以前は無情にもそっとフォローを外したりもしていたのだが、最近ではinstagramにもミュートや制限という機能が登場してからは、フォローを外さなくても済んでいるのでとても助かっている。結婚式の写真を連投した知人は容赦なく静かにしてもらっているので、最近のタイムラインに流れてくるのは、ほとんど親しい友人の投稿と、お気に入りの服屋や雑貨屋さんの新商品の紹介投稿のみである。
SNSとの快適な距離感。これからも自分の好きなように続けていく
だから今はまた、好きなようにinstagramを楽しく使えているような気がする。さっきも言ったようにまるで日記のように、私がいつどこで何をしていたのか、instagramを見れば思い出すことができる。
今年の3月から6月にかけては、精神的に参っていて記憶がほとんどないのだけれど、instagramを見ると思ったより頑張って生きている様子がわかるので、自分で自分の生存確認ができて非常に良い。
また私だけが使えるタグを作って、写真の種類や色でフォルダ分けをして、それを見返して楽しんだりもしている。いいねの数が気になることもあるけれど、誰かもきっと私の投稿を煩わしくおもってミュートや制限しているだろう。けれどそうできることで、お互いにSNSと快適な距離感を保てているのならば良い。
私はこれからも自分の好きなように続けていくと思うし、期待することなんて何もないのだ。