私はクリスマスのことがあまり好きではなかった。
クリスマスなんて、カレンダーの休日に当たっていなければただの平日と同じ。何なら旗日である旧天皇誕生日の方がよっぽどありがたい存在だ。

クリスマス直後に生まれた私にとって、目の上のたんこぶのような存在

なぜなら私はクリスマスのすぐ後に生まれた。
家族にも、プレゼントやケーキも一緒くたにされがちだった。ビッグイベントの後だと、私があんなに誕生日を祝ってあげていた友人たちにも忘れられ、冬休みということも相まっておめでとうメールはほとんど来ない。私にとっては煩わしい、目の上のたんこぶのような存在だ。
そんな私も、冬の風物詩として純粋に楽しんでいた時もあった。大きなチキンや砂糖でできた人形が乗ったケーキを食べ、プレゼントを楽しみに眠りに就いた。翌朝目覚めるとお願いしていた自転車が枕元に置いてあり、跳ねて喜んだりもした。
いったいいつから素直に向き合うことができなくなったのだろう。それはきっとサンタクロースが家に来なくなった頃からだ。

思春期を迎えると、「クリスマスは恋人同士が過ごす日」ということを知った。多感な時期なもので、私もご多分に漏れず、好きな人とクリスマスを迎えたいという憧れがあった。
しかしながらその夢は叶わなかった。私が学生時代に幸か不幸か「クリぼっち」という言葉が生まれた。クリスマスをシングルで過ごす人を揶揄する意味だ。友人間ではひょうきんで通っていた私は、高校時代はこの言葉を盾になんとか乗り切ることが出来た。

告白したら見透かされ、待ってもいつまでも来ない私のサンタクロース

大学生になっても一向に恋人ができることはなかった。
高校時代は、自分では「クリぼっち」と茶化しつつも、いつかきっと大好きな人と素敵なクリスマスの日を過ごすことができると信じて疑わなかった。だが、やっぱりそんな日は訪れることはなかった。
いつまで待っていても来ない私のサンタクロース。街を彩るイルミネーションも浮かれた人々も全てが私を苛立たせた。テレビから流れるクリスマスソングも耳にしたくなかったし、バイト先のツリーも視界に入れたくなかった。
そう、私は完全にこじらせていたのだ。

何を思ったか、自分では良い雰囲気だと思っていた男子に告白したことがあった。返って来た言葉は「クリスマスだからって付き合えると思うなよ」だった。完全に見透かされていた私は哀しさと恥ずかしさでいっぱいになった。

「クリスマスは私の生誕前夜祭に過ぎない」と思えば、心は晴れやかに

さて、現在アラサーの私はクリスマスとは我ながら良い距離感にいる。
しかしながら相変わらずクリスマスを恋人と過ごした経験もないし、おめでとうメールをくれる友人も増えた訳ではない。
大学時代にジェンダー論の講義の中で「女性はクリスマスケーキと同じ、25を過ぎたら売れ残り」という言葉が出てきた。その言葉に当てはめようとすると、私はとうにその対象になっている。
ところが、今の私の心は晴れやかだ。「クリスマスは私の生誕前夜祭に過ぎない」という心持ちでいられるからだ。
賑やかな装飾や街中のお祭り気分は、みんなみんな私のことをお祝いしてくれているのだ。そして12月25日を過ぎるとケーキやクリスマス仕様のものは軒並み割引がされる。自分の誕生日に少し良いお酒と贅沢なおつまみがリーズナブルな価格で買える。大人になった私は自分で自分のご機嫌を取ることができる。
なんて素晴らしいことなんだ。だけれども、祭の当日に街が静かなのは少し残念だ。