幼い頃はクリスマスが好きだった。家庭それぞれに、それぞれのクリスマスの形があると思う。
今となっては、おぼろげな記憶で、よく思い出せない。いや、覚えていることもある。でもそれが本当にそうだったのか、何の確信もない。他人の記憶のようにも感じる。

思い出すのは、毎年楽しみにしていた家族とのクリスマスの記憶

私の家では、クリスマスが近づくと、クリスマスツリーの飾り付けを父と二人の姉と一緒にやった。他にも、大きな緑色の紙をツリーの形に切って、壁に画鋲で張り付けて、そこに折り紙でデコレーションしたり、欲しいものを書いたりした。
クリスマスイブには一人一人ケーキ屋さんで好きなケーキを選んで、夕食後に皆で食べた。一番上の姉はチョコレートケーキ、二番目の姉はショートケーキ、私はチーズケーキ、いつもお決まりだった。
姉二人と布団で川の字で寝て、クリスマス当日の朝は、布団の上で姉たちとあれが入っていたこれが入っていたと大騒ぎし、両親と祖父母へのサンタクロースからのプレゼントは何か確認しに駆け回ったものだ。

サンタクロースは本当にいると思っていた。だってプレゼントには、必ずサンタクロースからの手紙が付いていた。
カラーペーパーに印刷された丸ゴシックの文字。それを読むのも、毎年の楽しみであった。

小学校の何学年だったか忘れたが、サンタクロースはいるかいないかの談義になった。その頃まだ信じていたかもしれないし、半信半疑だったかもしれない。
みんな「いない」と言っていた。
「親だった」
「うちも」
そうなのか。サンタクロースはいないのか。
一人、サンタクロースはいると主張し続けていた子がいたが、その子は周りから嘲笑されていた。

期待した夜を超え、いつしか本当にサンタクロースはこなくなった

サンタクロースはいないことを知った。ではプレゼントはどこにあるのだろう。ある年のクリスマス前、私は二番目の姉とプレゼント捜索を行った。
いろんな場所を探した気がする。押し入れ、倉庫、とりあえず物が隠せそうな場所。家の中には見当たらなかった。
そして閃いた。私たちは、車のバックドアを開けた。

直感は当たり、そこには包装されたプレゼントがあった。その時のテンションの跳ね上がり方は、相当なものだった。真実を突き止めた瞬間だった。
私は本当のことを知った喜びで、ある日母に「サンタクロースはいないんだよ」と言った。
私は見たのだ。プレゼントをどこで見つけたかも教えた。
今思えば、何でこんなことをわざわざ伝えたのかわからない。母親の反応は、覚えていない。夢から覚めてしまった瞬間だった。

いつからか、一番上の姉はクリスマスの準備に参加しなくなり、やがてクリスマスの行事自体、何も行われなくなった。
でも誰も何も言わない。こういうものなのだろうと思った。
同時に誕生日も祝われなくなった。起きたら枕元に何か置かれていることを期待した夜もあった。でもそこには何もなかった。
サンタクロースは来なくなった。自分で言った言葉が現実になった。
「サンタクロースはいないんだよ」

クリスマスの街中を自転車で駆け抜けた夜。この瞬間が好きだと思った

私はクリスマスが好きだった。でも、クリスマスはただの一日になった。特別な日でも何でもない。
それなのに、十二月になるとイルミネーションやらクリスマスツリーやらで街はクリスマス一色になって、『クリスマスをやれ』みたいな雰囲気で溢れかえっている。
高校三年生のクリスマスは、塾で過ごした。コンビニでケーキを買おうとしてやめた。帰り道、大きいツリー型のイルミネーションの前を自転車で突っ切った。夜風が気持ちいい。夜、自転車に乗っている時間だけは好きだった。こんなクリスマスも悪くない。寒い。寒くて最高だ。

家の近くで、顔が好きでよくガン見していた他校の先輩が女の子といるのを見た。いいな、彼女とクリスマス。いいなあ。
私は顔を伏せて自転車を漕いだ。いつか大切な人と過ごせるクリスマスを夢見た気もするけど、夜の空気はそれ以上に澄んでいて、私はこの瞬間が好きだと思った。
世間にとって特別な日であろうとなかろうと、私にとっての特別な時間は、もっと意味のあるもののような気がした。