「何が大切なの?」と聞かれた時、答えられる人が羨ましかった。
その人なりの答えを持っている人は魅力的だし、単純でありきたりな答えなら素直で人間らしくていい。
ちなみに私は何も答えられなかった。そしてそれは、自分が何も持っていないみたいで嫌だった。
だから、大切なものイコール『他ならない』ものについて向き合った1年だった。

なんでそもそも『他ならない』なんて言葉が存在するんだろう

これまで『他ならない』という概念がいまいちよく分からず生きてきた。
理由は簡単で、替えの効かないものなんて、実はないんじゃないかと思っていたからだ。
身の回りのものでも、行きつけの美容院やスーパーでも、それから私を取り巻く人間関係でも。
もしなくなっても代わりの物や存在はどうにでもなると思っていたし、そしてその代わりは実際に簡単に現れた。
あんなに親しくしてたのに、価値観が変わって音信不通になった友人もいれば、これだけは手放せないと思っていた家具や物を一時の衝動で簡単に捨てた。
甘やかしてくれない彼氏は、もう私のことを好きじゃないのかと自己完結して勝手に諦め、なんとなく距離を置いた。
でも、今だって私は普通に過ごしている。やっぱり、どうにでもなる。

じゃあ、なんでそもそも『他ならない』なんて言葉が存在するんだろう。
他の人にあって私にない感覚を知りたくて辞書で調べると、こう記載がある。

  1. (多く「…にほかならない」の形で)それ以外のものでは決してない。まさしくそうである。ほかならぬ。「彼の成功は努力の結果に―ない」
  2. 他の人とは違っていて、特別な間柄にある。ほかならぬ。「―ない君の頼みでは断れない」
    (コトバンクから引用)

数ヶ月考えて、結局『他ならない』って特別とか、まさしくとかそんな手の届かないところにある話じゃなくて、もっと、もっと身近で、だからこそ気が付かないようなことなんじゃないかと思うようになった。

何も与えようとしない私は、人から与えられることばかりを待っていた

これまでの人生は、まず先に相手から与えて欲しいと心から思っていた。物でも気持ちでも、人から与えられる何かを常に切望して、思い通りにならない不満をプスプスと消化できずに抱えていた。
いつも不満を抱える私に、家族は叱りさえするものの、結局は甘く、欲しいものは大体手に入れられていたように思う。
周りの友人は皆寛容的で、人と少し違う私の意見を受け入れてくれたし、今までのパートナー達はきっと、たぶん、皆ちゃんと優しかった。
それなのに、せっかく付き合ったパートナーが何か一つでも自分を蔑ろにするようなことがあれば、歯をむき出しにして怒る犬のように威嚇して自分を強く見せ別れたし、友人の言動に傷付けば、鎖国のように心を閉ざし、ラインをそっと非表示にした。

なんで何も与えようとしない私が、人から与えられることばかりを待っていたんだろう。
そんな私が、与えるって素敵だなと思えるようになったのは、心から尊敬する、ある人の存在だ。
去年出会った大切な人の1人に、常に、多方面に、自分から与え、気配りを忘れない人がいた。
普段はとにかく多忙で、魂をすり減らしている感じがした。近くで見ていて、なぜこんなに必死な毎日の中で、人に使える優しさを残せているんだろうと不思議に思った記憶がある。

買い物は効率重視でほぼネットだし、休日は電気もつけない暗い部屋でアニメを一気見、もしくは徒歩圏内の銭湯に行くだけ。食事に関しては片付けのいらない外食がデフォルトだった。

彼の不慣れな手料理に込められた気持ちこそが『他ならない』もの

そんな彼と一緒にいてしばらく経った頃、私に手料理を食べさせたがることが多くなった。
作ってくれたではなく、あえて、食べさせたがっていたと書いたのは、本当に有無を言わせずそうだったから。
人の何倍も時間をかけて振る舞ってくれた手料理は、その工程に何度も口を出したくなった。
あの時は、やってもらって申し訳ないなと思う気持ちが強かったけど。
もしかしたら、あの時与えてくれていたあの気持ちこそが『他ならない』ものかもしれないと、時間が経ってから気が付いた。

そういえば、たこ焼きパーティーをする時は、「俺が焼いてあげるから、◯◯(私の名前)ちゃんは見てて」と言って、1番上手くまあるく出来た物を食べさせてくれた。
だから、焦げてしまったものが私のお皿に乗ることはなかった。
焼き肉をするときは丁度良く焼けているところをすぐに取り分けてくれ、早く食べなと急かされた。
今になって思う。私も愛を注いでいたけれど、それは私が彼に好かれるための愛で。
こうやってしばらく経って思い返した時に、相手の心を温め直せるものじゃなかったのかもなぁ。

思い出した時に心の隅を明るく照らす存在こそ、私の『他ならない』

そう考えると。
何かの本や映画で見た、心を掬い上げるセリフ。何もかもだめだと思っていた時にかけられた言葉。落ち込んだ時はお酒で解決をモットーに、楽しく過ごす友人達。もう会えなくても素敵な思い出をくれた人達。
すでに掌から溢れてしまったり、記憶から消えかけたりしたものもあるけれど、そういう、思い出した時に心の隅をもう一度明るく照らしてくれるその存在こそ、私にとっての『他ならない』ものなんだと思う。
具が多すぎて飲み物としては役不足なお味噌汁も、一目見て味付けが濃いと分かる茶色のチャーハンも、不完全で完璧じゃないからこそ愛おしいんだよな。

出来る限り簡単に表現したくない気持ちを、尊いとかエモいなんて言葉では表せない感覚を、『他ならない』んだと気付けたのは最近だ。
一見とりとめもないものにこそ他ならぬ優しさが宿っていることに、鈍感に生きてきてしまった。
だからこそこれからはそうやって、相手の心をふっと照らせるような愛の渡し方をしていきたい。
そして、いつか相手が思い返したその時に、その思い出によって心がほかほかするような、
そういう『他ならない』存在になりたいなと、眠れない木曜日の夜に思うのです。