リボンをほどくと、包丁があらわれた。
春生まれのわたしへの恋人からの誕生日プレゼント。

「お手伝いしていないのがバレバレだね」と先生に笑われた調理実習

わたしは、料理ができない。
「したことがない」という方が近いかもしれない。

周りの人にこれを言うと、よく「学校での調理実習ではしたでしょ?」と返される。調理実習に関しては一切記憶がない。
ただ、ひとつだけ覚えている風景がある。
上手にじゃがいもの皮むきをする女の子のとなりで、わたしは不器用にじゃがいもをいじっていた。担任の先生が笑いながら言う。
「きみ、おうちでお手伝いしていないのがバレバレだね」
今思えば、コンプレックスという崖のすれすれを歩いていたわたしの背中を押してしまったのは、その言葉だったかもしれない。

「料理ができない」というコンプレックスの理由を、育った環境のせいにするのは簡単だ。
共働きの家庭で育った。
いわゆるカギっ子で、小学校から帰るといつもカーテンのしまった部屋でひとり、晩ごはんを食べた。
母親が用意してくれていたおかずを温める時間を空腹ゆえに待てず、そのまま食べていた。レジで温めてもらえるコンビニ弁当やファストフード店で食べるもののほうがおいしいと感じたのは、当然のことだったのかもしれない。

「手料理が一番おいしい」という答えが衝撃的だった

ひとり暮らしをはじめるとき、自炊ができる人に「どうして自炊をするのか」と聞いてまわったことがある。
「節約」以外によく挙がった答えは、「手料理が一番おいしいと思うから」というものだった。
衝撃的だった。
わたしはそのときはじめて「買ってくるものや外食のほうがおいしい」と思っている自分のことを自覚した。そして、「手料理が一番おいしい」という考え方に至るほどに、家庭でおいしい手作りご飯を食べて育ってきた人の存在に嫉妬した。

打ちのめされた。わたしには無理だ。
そう思い、「料理なんて一生しない!」と友人に宣言。以来、外食とコンビニ弁当、お惣菜や冷凍食品ばかり食べて暮らした。
改めて思う。
料理なんかできなくても、おいしいものを食べて暮らしていける。

恋人は料理ができて、食事とお酒が好きなひと。デートではよくおいしいレストランに連れて行ってくれる。
内装やテーブルウェアにもこだわっているお店で独創的なコース料理を食べたとき、本当に楽しく、心から満たされた気持ちになった。
「食事」って、「体験」なんだ――わたしの中で「食」というものの立ち位置がワンランク上がった出来事だった。
この先、おいしい食事に出会うたび、きっとこの日のことを思い出すだろう。

小学生の時、ひとりでもくもくと食べたあのごはんだって、立派な「体験」のひとつだった。そう思えるようになって、なんとなく恥ずべきだと思っていた記憶をやっと受け入れられた。

料理をしないわたしは、恋人に手料理をふるまうどころか、チョコレートでさえいくらお願いされても手作りは渡さなかった。手作りはおいしくない、という気持ちに、自己肯定感の低さがさらに拍車をかける。わたしの手作りなんてまずいに決まっているのだ。

恋人は、「料理」の見方も変えようとしてくれていた

そんなわたしへの誕生日プレゼントに、恋人は、調理器具を選んだのだという。
付き合って数年経つから、わたしが料理をしないことはもちろん知っている。それこそお付き合いしてはじめてのバレンタインに、「手作りチョコレートがほしい」と言われて「手作りなんてあげたくない」と大泣きしたからだ。

考え方ひとつで、世界の見え方はひっくり返る。
「食事は体験」とわたしに教えてくれたこのひとは今、「料理」の見方も変えようとしてくれていた。

この夏、わたしは料理に挑戦する。

夏のごはんといえば、何を思い浮かべるだろう。
さっぱりとおいしい夏野菜。カレーも似合う。桃もいい。ビールに合わせてお肉もいいな。さわやかなブルーのランチョンマットに、グラスもこだわろう。料理をしたくない、という気持ちとは裏腹に、食事をつくりあげることへの妄想がどんどん広がった。
呪いが解かれるように、わたしの中にずっとあった感情があふれだしてくる。

あのとき、ひとりでつめたいごはんを食べる小学生のわたしを抱きしめたように、「料理なんて一生しない!」と叫んだ自分のことも、抱きしめられるようになりたい。