母と私はそっくりだ。顔が似ているだけじゃなく、短気な上に涙もろい性格も、ひどい偏頭痛を持っているところもよく似ている。だからかしょっちゅう喧嘩をする。私が成人式の日も喧嘩をしていた。誕生日や母の日とイベントごとにあげていた手紙を久しぶりに書き、いつ渡そうか迷っていたタイミングだった。結局頃合いを見失い、その手紙はゴミ箱行きとなった。それ以来、手紙は書いていない。これは、そんな渡せなかった手紙へのリベンジでもある。

初めての一人暮らし、当たり前に注がれる母の愛を何度もかみしめた

父と離婚した母は、女手一つで私と弟を育てた。小学校まで汲み取り式トイレ(いわゆるボットン便所)の貸家で暮らし、今でも実家は団地だ。貧乏エピソードをあげたらキリがなく、学生の頃は羞恥を抱いていた記憶が色濃く残る。と同時に、身を粉にして働いていた母の姿もよく思い出す。反抗期がひどかった私が母と仲良くなったのは、一人暮らしを始めてからだった。無条件に与えられていた愛に今さらながらも気づいていった。

そんな私はもう少しで25歳を迎えようとしているが、すでに3回転居している。初めての一人暮らしは大学生のとき、そしてそのアパートは大雨により浸水した。一階の部屋から逃げ出し、近くに住んでいた友人に助けを求めた。その友人は男子寮の2階に住んでいて、そこで夜が明けるのを待った。事態を聞いた母は実家から駆け付けようとしていたが、道自体が浸水していてどうにもなかった。少し離れた女友達の家に移動し身を寄せていた私を、母が迎えに来られたのはそれから3日後だった。ドアを開けると、母は少し泣いていた。あとから聞くと、救助隊に連絡し「男子寮にいる娘が一番危ないから助けてくれ」と怒鳴りつけたらしい。母の疲れきった様子を見て、私は絶対にこの人より早く死んではいけないと、大学生ながらに思ったのだった。

なんとか支援してもらいながら新たに引っ越したその家に、母は何度か遊びに来た。その度に大量の手料理を冷凍して持ってくる。女一人暮らしの家に持ってくる量ではなかったが、そこには私の大好物ばかりが並んでいた。こんなにも母は私を理解しているのかと初めて気が付く。激務の中、寝る間を惜しんで作られたその料理たちは、愛をカタチにしたみたいで食べるたびに涙腺が緩んだ。

母にもらった包丁に見合う女性になりたくて、実家には帰らなかった

社会人になった私は2度目の引っ越しをする。そこに母が泊まりに来たことがあった。仕事の用を済ませてから向かうと聞き、手料理を用意した。すると、母はピンクの薔薇をもって現れた。「手料理を作ってくれるっていうから」。娘がつくる食卓に花を添えようという母に、この時もまた涙腺が緩んだ。料理ができない私のイメージで止まっている母は、「すごい!」と料理をひとしきり褒めていた。その後、包丁が切れないという私に誕生日プレゼントとして包丁を送ってきた。それはとても高級なもので、刃には私の名が彫られていた。「こんな良い包丁、私に似合うかな」と言うと、「その包丁に見合う女性になれるように、その包丁を送ったんだよ。女を磨く包丁だよ」と母は言った。今でもその包丁で料理を作るとき、その言葉は時折、脳内で再生される。

社会人も1年半がたった頃、私は転職を決意した。これが3度目の引っ越しとなる。ギリギリまで話さなかった私に、母は泣き激怒した。就職がうまくいかず実家に帰ってくるだろうと想定していた母に「東京で働く」と告げると、「布団も干して部屋も掃除して、なんだかんだ楽しみにしていたんだけどなあ」と母は言った。そんな母に胸が締め付けられたのを覚えている。実家という選択肢を除外したのは、甘えたくなかったから。そしてあの時もらった包丁を持って帰ることに、抵抗を覚えたからだった。持ち帰ったら「女を磨く包丁」としての効力が消えてしまうような気がして。

私は一人じゃない 胸いっぱいの母の愛を抱きしめて生きていく

東京にずっといるかは分からないけれど、一人でも生きていける女性になりたいとずっと思っている。そうやって力を付けていく中で、迷惑をかけてかけられて、頼りたい人ができていくのであればそれもいい。でも、私はこれからも母の愛と暮らしていく。母を想うと活力が湧き、母を思い出すと涙腺が緩み、母を感じながら料理を作っている。もう少しで母の誕生日だ。私を産んでくれてありがとう。これからもどうか、仲良くしてください。