私のSNSとの距離感は、他者とのそれととても似ている、というか同じなんだと思う。近すぎず遠すぎず、適度な距離感を常に推し測っているから。
でも、それって何事にも言えることなんじゃないの?家から職場が遠いと通勤時間がかかって、なんだかいやになっちゃうけど、近すぎても休みの日に職場の誰かに会っちゃうかもしれなくて、すごく気まずい。
私は「適度」ってとてもざっくりした言葉なのに、ドンピシャで言い当てている言葉な気がする。適度が意味するものはそれを話す人と受け取る人で違うところがあっても、なんら問題はない。文法的には成立しているような気がする、会話が噛み合わなくても。適度ってまさに当たらずとも遠からずだと思うのだ。

他者との付き合う上での私のルールは、近すぎない関係でいること

その適度な距離感で、私は今でも人との距離をとり続けている。のらりくらりと、広く浅くってわけでも、狭く深くってわけでもない、その中間の近傍あたりを。家族だって、恋人だって、ずっと一緒にいたら嫌なところが見えてきちゃうから、一緒に住まなくていいと思っている。

だから、恋人には週末に会えればいいと思っているし、家族には長期休暇などたまに会えればいいと思う。たとえ、とても好きな恋人だって、ずっと一緒にいたくない、わたしのことを知れば知るほど離れてしまうのが怖いから。友人もそう。たまに一緒に旅行をして恋人の話をしたり、愚痴を聞いたり、たまにそんな時間があるからいいのだ。今はコロナ禍で、夜中にお酒を交えたオンライン飲み会とか流行っているから、それでもいいけど、それだって私はたまにでいい。毎週は多いと思ってしまう。

私にとって誰かを好きでいるためには、誰かと良好な関係を継続させるためには、近すぎない関係でいること、心の底のいろいろなことに触れないこと、相手を知りすぎない適度な感じを探りつつなんとなく知ってなんとなく一緒に過ごすこと。
それが他者との付き合う上での私のルールだ。
それ以上は求めないし期待しない。きっととても冷たいのかもしれない、けれど、それが私なのだ。

キラキラした投稿を見て、自分の人生がひどくつまらなく思えた

同じ適当な距離感でSNSとも付き合っていて、どっぷりハマると時間がいくらあっても足りないし、見続けるほど見つけてしまうキラキラしたどこかの誰かの投稿内容と比較して現状の自分に嫌悪してしまうから、近すぎは厳禁。
遠すぎると、世情に疎くなってしまうし、敬遠するのは勿体ないツールだから、それも、しない。
隙間時間に好きな化粧品を眺めたり、ヨガ動画やクッキング動画をながめたりする。好きなものは見るけど、誰か知り合いを積極的に探したりはしない、フォローもしない。知人の投稿にしなければいけない義理のいいねとかホントめんどくさい。直接会っている時も気を遣っているのに、会っていなくても気を使わければいけないなんて、と思ってしまう。自分が素直にその投稿を見ていいねができるのがいい。

Facebookが流行り出した頃は遠くにいる人とも瞬時に繋がることができて、中高の同級生を探せて、すごく便利だからと活用していた時期もある。けれど、毎週末に楽しそうなイベントにいつも行っている人たちを見ながら、自分の人生がひどくつまらなく思えて、焦りや不安に苛まれたことがあって、少しずつ距離をとってしまった。SNSは世界中にいるたくさんの人やモノの情報の今を知ることができるけど、それを受け取る側も楽しめるように比べる必要なんかないんだと理解している必要があると思う。

他と違うことが当たり前。SNSを使う私も大人にならければいけない

あの時の私はそれに気づいていなかったから、とても苦しい思いをした。私はわたしだと、唯一無二の存在なのだから、他と違うことが当たり前だと思っている必要があると思う。それに気づいて初めて適当な距離感で付き合える気がする。

SNSは確かに便利だけれど、大人が使いやすいものだから、使う私も大人にならなければいけない気がする。まさに大人の距離感で。
成人式もずっと前に経験した一応大人の私は、一体いつ、その大人の距離感をわかるんだろうかと思っている。いつになったら大人になれるんだろうか。きっとこれからも、もがき続けるんだろうけどね。