クリスマスといえば身長を超えるツリーに、行きつけ店の鳥の丸焼き、地元で有名なケーキ屋さんのホールケーキに、サンタさん……。
私はご馳走を前にクリスマスソングを歌い、父が早くワインを開けたいとばかりに終わるのを待ち、母はビデオを撮り続ける。ドラマで思い描く理想的な家族のクリスマスだったと思う。
忘れてはならないのは、祖父の存在だ。
私たち一家は、祖父と同居をずっとしていた。その祖父が、クリスマスツリーを毎年新しいものを買ってきてくれた。幼かった頃の私は飾り付けを大喜びでして、24日にはサンタさんが家に入れるように必ず家の鍵を開けておくよう、祖父に頼んでいた。

祖母が亡くなった半年後に私は生まれ、祖父は周囲に私を自慢していた

私は祖父のパートナー、つまり祖母を知らない。私が生まれる半年前に癌で亡くなった。
仲の良い夫婦だったと聞く。年を取ってからも二人は小さな部屋でダブルベッドで一緒に眠り、祖母が亡くなったあとも、祖父はずっとそのベッドで寝起きをしていた。寂しがり屋の祖父は相当つらかっただろうことは想像に難くない。
祖母が亡くなった半年後、私が生まれた。何をするのも平均より早かった私は、祖父と一緒に散歩に行き出すのも早かった。それを近所の人たちは羨ましく見ていたらしい。
祖父は貯めていた貯金を存分に私に使ってくれた。欲しいものは何でも買ってくれた(そして母にあまり迷惑かけちゃだめと怒られた(笑))。何よりも祖父は私のことをあちこちで自慢をしていたらしい。

私がそこそこ勉強ができると知った祖父は、しきりにとある大学を薦めだした。最終的にそこにはいけず、祖父に申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、進学先の大学を、良い大学だよ、と言ってくれたことで心のつかえが降りた。ただ、自慢の孫になりたい、そう無意識では考えていたと思う。

全てがあと一年早ければ、私の成果を祖父は理解できたかもしれない

そんな中、私は大学で突然、大きな成果を出した。世界中からの応募者の3人に選ばれ、大変な名誉を授かった。人生で一番忘れない、日本人として生まれてこれ以上にないくらい光栄な出来事であった。
色んな人がお祝いをしてくれた。どの言葉もとても嬉しかった。ただ、私が一番に喜んでほしいって真っ先に思ったのは祖父だった。

祖父は今、軽い認知症を患い、施設に住んでいる。とあることがきっかけで入院した祖父はコロナ禍で家族との面会が謝絶され、その間に認知症がどんどん進行してしまった。
私のことを忘れてはいないが、私を見て、私と認識はできないと思う。私が今どこで何をしているかも、少しだけ間違えている。
もし私が成果を出すのがあと1年早ければ。もしコロナ禍にならず、頻繁に会え認知症が進行しなければ、この私の人生最大のニュースもきちんと理解していたに違いない。そう思うと悔しくてならない。

12月に入り、突然祖父の食が細くなった。どうやら癌が見つかったらしい。
私が生まれた時もそうだった。私の人生の節目には、いつも何かが起きる。まるで私がみんなの悲しみを癒やしているかのように。だから、就職を迎える今回も、内定をもらったとき、喜びとともに、何かあるんじゃないかと少々怖かった。何よりも、祖父が頻繁に夢に出てくるのが怖くて怖くて仕方なかった。

いずれこういう日が訪れることはわかっていた。覚悟もしていた

祖父は施設でずっと家に帰りたいと言っている。私たちが面会に行くといつも泣いている。そんな弱った姿を祖父は私に見てほしいと思っているのか、たまにわからなくなることがある。
祖父はヘルパーさんに生きがいは孫の成長とずっと言っているらしい。私の功績もヘルパーさんから聞いて、ニコニコ笑っていたという。
きちんと理解できているのかわかないが、祖父が笑顔になるなら、私も嬉しい。

いずれこういう日が訪れることはわかっていた。そのための覚悟もしていた。しかし実際に迎えると、もう少し早ければ、と後悔しかない。
実は大学の学費を祖父が出してくれていたと、最近母がこっそり教えてくれた。
孝行したいときに親はなし。何も孝行できなくてごめんね。今なら旅行を連れていくだけのお金もあるし、海外で通訳もしてあげられる。間に合わなくてごめんね。でも祖父が元気だったら、そんなこと言わないでって言われそうな気もする。

だから、私は私のやるべきことを、今はやるだけだ。
クリスマスはキリストの誕生を祝う日。始まりの日。
一人暮らしの部屋の小さなツリーを見て、あのときの祖父と家族の団らんを思い出している。