昔々あるところに「お手伝い」が苦手な子どもがおりました。例えば私とか。

理由①、なんとなく空気を読んで、適当なお手伝いをするのが難しい。うちでは家事の主導権はママにあり、そのペースを乱したり余計なことをして逆に迷惑をかけるのを恐れた。私は長女で、人に迷惑をかけるのを異常に避ける性質がある。あと、色々考えすぎる。
理由②、単純に面倒くさい。本を読みたいし、テレビも見たいし。勉強もお手伝いもやりなさいと言われるとやりたくなくなる。言われなかったらやるのに。嘘じゃないもん。
理由③、そもそも、なぜ子が親のお手伝いをするのが当たり前なのか? 「ママは家政婦じゃない!」と怒るけど、子どもが学校に行き遊び、親が家事をするのは正しく分担された仕事なのでは、とかなんとか。
こう書いてみると性格のねじ曲がった子どもだな。

ひとり暮らしは、「お手伝い」ではなく自分の仕事として家事がある

そんな子もすくすく育ち、ちょうど二十歳になったタイミングでひとり暮らしをはじめた。
「お手伝い」じゃなくて、はっきり自分の仕事として与えられる家事。はじめて住んだ家ではちょいと疲れてしまって、掃除をさぼったりゴミ捨てをさぼったり洗濯をさぼったりしていたら、まあまあ酷い有様になった。
こんなんママに絶対怒られるわーと思って怖くて隠していたけど、引っ越しの時にバレたし怒られた。お恥ずかしい限り。こんなことは友だちにも言ってなくて、はじめて書いた。
そんで今住んでる二番目の家は、反省と有り余る時間を活かして前よりは頑張っている、けど、やっぱり家事が苦手な大人が、この文章を書いている。

まあ多くの人にとって家事は面倒くさいと思うんだよね。時間がかかるし、そんなに楽しくないし、意外と「ながら」でできないし、なにかを生みだせるわけじゃないし、一番は生活している限り何度も何度も無限にやらなきゃいけないってとこ。

ノー家事、ノーライフ、家事は生きることそのもの

私はなんでもちゃちゃっと終わらせることが好きで、家事は終わらせても終わらせても終わりがないからだんだん嫌になるんだ。それでも、掃除機をかけないとほこりがたまるし、水回りの掃除をしないと全部詰まるし、洗濯しないと服が臭いし、ゴミは捨てないと邪魔。だからやる。ママに怒られないためにやるんじゃなくて、自分が生きていくためにやる。
生きていくのは大変だなあと思いながら、掃除機の紙パックを忘れずに買ったり、残り湯で洗濯したり。
つまり、家事は生きることそのものだって、分かってきた。
ちゃちゃっと生きてちゃちゃっと死ねたらいいけどそうもいかないもんね。ノー家事、ノーライフ、これはマジ。人間生活に残った野生の部分か、あるいは進歩しすぎた結果か。
とにかくひとりで暮らすことは、そういう意味でひとりで生きることである。人はひとりじゃ生きられないかもしれないけど、私は今ひとりで生きているんだよ。もしかしてそれだけでえらいかも。
まあこんなことに今さら気付いたからって、屁理屈をこねてお手伝いをしなかったあの頃を悔いることは別にないけれどね!(ママに心からの感謝だけ)