私は4年前、大学進学と共に実家を出た。ここまではよくある話。
だが、それから間もなくして両親は離婚。実家は売られて私の帰る家はなくなった、という一味違う展開を迎える。

両親の離婚で売られた実家は、夫婦の愛がなくなればただの「巣」だ

何でも離婚の際に生じる支払いの足しにするべく、売られたそうだ。
「愛の巣」なんて呼ばれる夫婦の家も、愛がなくなってしまえば、ただの「巣」。換金できる財産の一つにしか過ぎない。子供が巣立ってしまえば、特に。
こうしてみると、家や独り立ちすることを鳥関連の言葉で比喩するのは、理に適っているような気がする。

こんな私に対して、父方や母方の祖父母は「私たちの家を、実家だと思えばいい」と言ってくれる。「とても愛されているな」と感じるが、訪れた祖父母の家で私はあくまで「客人」。私なんかのために世話を焼いてくれる祖父母に、手伝いをしながら申し訳なさを感じてしまうのだ。

両親の喧嘩が絶えなかったあの家も落ち着ける場所とは言いづらかったが、祖父母の家も心の底から落ち着ける場所ではなかった。

ここで、私はふと思った。「実家」の定義とは何だろう?

「実家」の意味を調べていると、ツバメの巣作りを思い出した

私の執筆の相棒である辞書に聞いてみた……すると、「自分の生まれた家」のことらしい。昔ならともかく、この人の行き来が活発な世の中に置いて、生まれた家が残っている人はどれ程いるだろうか。俗にいう転勤族や、子供の成長に伴い引っ越した者――冒頭の売られた私の家がそれにあたる――は「実家無し」ということになる。

また嫁入り、婿入りで他家に入った人にとっての実父母の家でもある。どちらにせよ、「生まれた家」という意味と言えるだろう。だが本来ではそうでも、今では「実家」は帰る家という意味で使われているようだ。

突然だが、皆さんは春先に渡り鳥であるツバメが巣作りするのを見たことがあるだろうか? ……いや、なに。ここまでくると、再び鳥の比喩でこのエッセイを締めくくりたい気持ちになり。

家の軒先や学校、駅にツバメが巣を作っているのを見たことがある人ならご存じかもしれないが、ツバメは次の年もほぼ同じ場所で産卵する。番(つがい)は変わったりするものの片方は大体去年と同じ個体らしく、その割合は約4割。これを聞いたとき、私は人間における「帰省」に似ていると感じた。

自分にとって住みやすい環境の、生まれた地にて産卵し繁殖する。まるで「里帰り出産」のようではないか。独り暮らしをする私たちや巣立ったツバメにとって実家(日本)とは、一番無防備になれる、または安心できる帰る場所なのかもしれない。

「いつか」の日を夢見て、私は今日も諦めずに生きていこうと思う

親の庇護で育った雛のような私たちは、いつかは巣から飛び立たないといけない。しかし「社会」という大空はそれほど甘くはない。それならずっと親元の巣に引きこもっていたいが、それはそれで食べるのにも生きるのにも困る「冬」が待っている。
それにいつか親は私たちを置いて死ぬ。だからツバメたち――社会人、または大人たち――は、大空(社会)を飛び回る「渡り」という仕事をしつつ、餌も豊富な住みやすい地を求めて生きるのだ。

こんな偉そうに書いている私自身、一人暮らしを始めているものの、持病から社会で働くことが出来ずにいる。何とか援助を受けつつ療養をしているが、私の羽休めはいつまで続くのだろう。
友人や人づてから、社会を縦横無尽に飛び回る同年代の活躍を聞くたびに、焦燥感が生まれる。私には帰る実家も、もうないと言うのに。

だが、焦りは禁物。悲観することなど何一つない。

先程、前年と同じ場所に戻って来るツバメの話をしたが、逆に考えれば残りの約6割は新天地を見つけるのだ。なら、私もいつか社会を飛び回り、パートナーと暮らす新たな住居を見つけることができるかもしれない。
そして、もし叶うのなら、そこで育った子が時々帰ってきてくれるような温かい家になることを祈るばかりだ。

それまでは渡りのために何千キロも飛ぶツバメのように、諦めずに生きて行こうと思う。