平日の昼間のミスドには、女二人の組合わせが良く見られるのだ。特に時間を持て余した専業主婦が。
くすんだ色のボアジャケットを隣の椅子に引っかけて、浮かない顔と声色で保険金や夫の愚痴をこぼす母親達。
その、敷居を挟んだ隣にはパルコで買ったであろうニットのセーターをまとった姿形がよく似た女の子二人組。大学生だろうかスマホに夢中になっている。
何を話すのだろうか彼氏の話だろうか。それともインスタで誰誰がどこ行ったなんて話しているんだろうか。

「案外孤独も悪くない」と、私が一人で開き直る瞬間

何てことない日常の風景だけど、私自身うんざりしたものを感じるのだ。敷居を挟んだ女の子と主婦の対比が、ポケモンの進化型のように将来を案じているようで。
席を挟んで向かい側に座っているお一人様のマダムにも、仲間と思わしき人物が現れた。
やがて店内の話し声が大きくなってきて、音楽を聴けるようスマホを持ってくれば良かったと思った。もともとこんなところに来てまであんなものを触っていたら疲れるから家に置いてきたのに。
でもこんな時、友達がいなくて良かったと思うのだ。うっかり若さと時間を持て余して喫茶店でだべっていたら、ずるずると流されて年を取ってくたびれた専業主婦になってしまうのではないかと思うからだ。自分でもどんな理屈だよと思うのだが。
普段は、人が興味を持って近づいて来てくれても怖くなって距離を取って逃げてしまう自分の性格をうらめしく思ったり、そのたびに反省したりするのだが、こんなときだけ「案外孤独も悪くないな」と一人で開き直るのだ。

連絡不精な自分の性格もあって、社会人として働いている今は学生時代の友達とも疎遠になりかけているが、一人で休日に誰と合うわけでもなく無心でテキストを叩いたり猫カフェにいったり夕飯の買い物をしたり。日々仕事に追われている毎日の中で自分一人のために時間を使っているのは、実はとても贅沢なことをしているのではないかと思うのだ。
もちろん誰かと過ごす時間も私には必要だ。
一人で食事するより二人で食事した方が美味しく感じるし、自分と考え方も感じ方も違う他人の意見に救われることだってもちろんある。しかし、どうしても一人で散歩しながら音楽をだらだら聞いて歩いたり、読書で空想にふけったりする時間を優先してしまう。こんな自分を時々どうかと思うことがある。

人に合わせてすり減らすより、無理に友達を作らなくても良いと思う

そんな時に思い出すのがフランスの教育だ。
ある子供が学校でなかなか友達が出来ないと親に相談する。親はそれが当たり前だという。人は自分以外の者と分かり合うのはとても難しい。だから人は孤独なのが当たり前だと。その中で、一人でもいいから心を許せる人が出来れば上出来だと教えられるそうだ。
それとは対照的に、日本では友達100人出来るかなんてプレッシャーをかけてきたり、一人で行動していたら人格障害扱いされたりするのだ。
「ヒトカラ」とか「ボッチ飯」とかいう言葉は、裏を返せば、カラオケも食事も誰かと一緒の事が前提という押しつけを感じるのだ。
一人だろうが二人だろうが、誰も見ていないのに余計なお世話である。誰かが見ているかというより、他でもない自分自身が一人で行動している自分の事を気にしているのではないか。結局は自意識過剰過ぎるのである。
色んな人間と関わる事を否定している訳ではない。しかし、人には合う合わないがあるし、一人でいる方が性にあっている人もいるのだ。合わないのに無理に人に合わせて時間をすり減らすより、自分一人に時間を使ったほうが心地よい。友達がいなくて良かったというより、無理に友達を作らなくても良いのだ。