クリスマスが近付くと、無意識に「今年はどこで過ごそうかな」と考えてしまう。
今でこそ焦燥感は薄れたけれど、一人暮らしを始めるまでは予定を入れることに必死だった。いつしか私は、クリスマスを実家で過ごせない呪いにかかってしまったのだ。
クリスマスは幸せの象徴だとか愛に溢れるイベントだというけれど、ともすればあの年のクリスマスは我が家の崩壊を表していたと思う。小学五年生の時である。

家族で祝った最後のクリスマスを、はっきり覚えている

サンタクロースの存在を長く信じていた私は、クリスマスに随分心を踊らされたものだった。母は元々誕生日やイベントを一生懸命祝ってくれる人で、朝から食べきれないくらいの料理を手作りして、部屋の飾り付けもしっかり行って、まさに私にとって一年で一番楽しい日でもあった。玄関の灯りを消すとツリーのライトが控えめに光るのも大好きだった。
あの頃の私は幸せだったのだ。

家族で祝った最後のクリスマスパーティーをはっきり覚えている。
あの年は朝から不穏だった。父が「夜に用事があるので早くパーティーを始めてほしい」と言い始めたのである。
それは今となっては無茶だと分かりきっている話で、母の手間や気持ちを考えない、無神経な提案だった。

母は明らかに不機嫌になっていた。私は両親の雰囲気を察してポテトサラダを作るのを手伝ったが、その程度では部屋全体に掛かった薄暗いモヤを消すことも出来なかった。
夕方の五時、パーティーの準備が八割方終わった頃、父は「出来上がった分から食べる」と言って勝手に唐揚げをつまみ始めた。「いただきます」の一声すらなかった。
母の悲しそうな顔を、何かが終わった瞬間を、未だに忘れられない。

あのパーティーは、切ってはいけない脆い糸だった

私たち家族は元々良好な関係ではなかった。
両親が結婚指輪を付けているところを見た事がないし、父と二人で遊びに行った記憶が人生で一度しかない。
しかし今思えば、例えばパーティーというイベントを作ったり、みんなで出掛けたり、表面を取り繕うことで誤魔化しながら生きていたように思う。
父にとっては「クリスマスパーティー如きに」という感覚だったのだろう。絶対に切ってはいけない脆い糸にハサミを入れたのである。

「もう二度とパーティーはしない」
母の発した言葉は覆されることがなかった。
翌年から白米がお赤飯に変わることはあっても、朝から大きなプリンを作ってくれることはなくなった。ツリーはいつの間にか飾らなくなった。玄関は暗いままだった。

クリスマスは「幸せの象徴」だから…

今思えば、あの頃のクリスマスパーティーは母から娘へ向けた愛の証明であって、その矢印は家族全員に向けたものではなかった。
「家族は仲良くないけど、私は貴方のことをちゃんと愛しているわよ」という、純粋な気持ちで私をもてなしてくれていたのだろう。一番無垢だったのは母で、家族愛の薄っぺらさに気付いてしまったのが私。
父なんてサラダを準備するために卵の殻を剥こうとすらしない人間なのだ。その時点であのパーティーは、幸せの象徴として成立していなかったと思う。

私はあれから『家族団欒』という言葉を鼻で笑うような捻くれた大人になってしまった。実家に帰るのも億劫で、父とは連絡すら取らない。
クリスマスは幸せの象徴である。だから私たち家族は、クリスマスに集まらない。