地元で就職して実家に帰りたい旨を話したら、途端に雲行きが怪しくなった。
年を取って人の話が聞けなくなった母と、その出来損ないの娘(母に言わせれば「育て方を失敗した」らしい)は、私が家を出る前から上手くいってなかった。
「帰ってくるな」に込められた想いなんて、小娘の私に分かるわけない
大学卒業を控えた夏の話だ。当時の私は実家のある地元を離れて、大学近くの賃貸アパートに下宿していた。
高校時代は受験のストレスで何かと両親と噛み合わないことが多くて、衝突ばかりしていた。風呂に入る時間をとやかく言われたり、部屋で聞いていた音楽のボリュームを注意されたり、しようもないことばかりだ。
幸い勉強だけは出来たので、家から出てやるぞという一心で、地元の国公立大学よりもレベルの高い大学を受けて、そして受かった。
晴れ晴れしい気持ちで新生活の準備をする私に父が一言、「まあ、もうそんな帰ってくるなよ」。
後から聞けば、大事な一人娘を身を切る思いで離れた土地に送り出した父としては、覚悟を決めてしっかりやれよ、ということらしかった。しかしそんなことは高校を卒業したばかりの、遅ばせながら来た反抗期に片足突っ込んだままの小娘には分かるわけがない。
我が家は祖父母と両親の兄弟の家族、それぞれひと家族ずつしか付き合いのない典型的な核家族だ。正月や盆に親戚一同が会するような行事もないので、母には「わざわざ公共交通機関が混む時に帰ってこなくていいわよ」と言い放たれた。
大学生の一人暮らしは学部やサークルの友達との予定で、かろうじて暇や寂しさを埋めて成り立っているようなものだ。当然、年末年始には近所の下宿に住む友達は帰省していていなかった。一人寂しく見る紅白歌合戦とインスタントの蕎麦がどれほど味気なかっただろうか。
実の子供なのに、実家に「住まわせて」もらう条件を出された
年ごとに繰り返す行事は私にとって悪夢だったが、それも4回ほどで次のステップに移らなければいけない。大学を卒業すれば、就職だ。
やりたいこともなく、学部で学んだことを生かせるような気もせず、ただ漫然と毎日の授業やアルバイト、サークル活動をこなして過ごしていた私にとって、就職活動は靄の中で手探りするよりも結果の見えないものだった。
そこそこの学歴があることが私をより苦しめた。興味関心のない会社の人事に御社が第一志望ですなんて、嘘を笑顔で吐けるほど私のメンタルは強くなかった。
就職活動で東京に行くのに片道3時間半。面接に呼び出しておいて挙句、会社から来るのは不採用の通知ばかりだ。地元の企業ならチャンスがあるかもしれない。もしそうなったら、一人暮らしを続けるのは非合理的だ。
実家に帰らせてほしい。その一言が不穏な空気を生んだ。
面接から帰ってきて疲れた私に、出し抜けに父が言ったことは「実家に住まわせてやるんだから、お前は母親に対して我慢しなければいけない」「お前が我慢できないなら俺たちはじいちゃんの家に引っ越す」「俺たちを追い出すのか」。
実の子供が実家に住むのに許可が必要なのだろうか?家族とは「住まわせて」もらうものだろうか?
私が母に言われる支離滅裂な主張や「あなたなんて産まなきゃ良かったわ」「育て方を失敗したわ」そんな悪口雑言に全く我慢していないというのか。
じゃあ逆に私を追い出す?進学で家を離れた時から追い出されたということ?
メンタルが弱って動けない日々で思うことは、母に会い、父と話したい
そうして私は大学を卒業した。とある地元の企業が拾ってくれて、別の地域のオフィスに配属されたのをいいことに、結局実家には帰らなかった。
「もう社会人なんだから自分の人生は自分で決める」そんな大義名分のもとにいつしか親に連絡を取ることはなくなった。携帯を変えたタイミングで電話帳から両親の番号は削除されていた。
一年が経った時、私は上司にいびられて新卒で入った会社を辞めることになった。情けなくて恥ずかしくて、なんと言って怒られるか分からなくて、両親には相談できなかった。もともと強くもないメンタルはぼろぼろに折れて、地下鉄のホームで何本も電車を見送りながら、ぼんやり飛び込むタイミングをうかがっていたりした。
ベッドから一歩も動けないような日々が続く中で思った。「母に会いたい」「父と話したい」と。
そう意識してからも、電話をかけるのはとても怖かった。やはりいい大学に行かせたのにと怒られるのだろうか。たったの一年で我慢できず会社を辞めてしまうなんて、育て方を間違えたと失望されるのだろうか。
「もしもし?」
母に掛けた電話は驚きの声とともに繋がった。母には、ずっと電話をかけても繋がらなかったし、まる一年以上音信不通で不安に思っていた、知らせがないのはいい知らせだと信じていたけど、とても心配していたのだよ、と言われた。
会社を辞めたことを伝えても母は何も怒らなかった。まずは元気になるのが一番だよ、と。
母も私も、電話口で泣いていた。
連絡を絶っていた間の寂しさゆえ、肉親の大事さが分かった気がする
私は今、とある田舎の地域で療養しながら次のキャリアに向かって体力をつけているところだ。相変わらず両親と同居はしていないが、近況を知らせることは躊躇わずできていると思う。感染症の影響でなかなか会えていないが、それでも年末には――いや、道が混むから年明け少し経ってからかな――会いに行けたらいいなと思う。
父は会う度に小さくなっていく。母は病気が分かり、連絡を取らない間に3ヶ月も入院していたそうだ。今まで心に響いたこともなかった肉親が大事だということの意味は、連絡を断っていた間の寂しさゆえ、やっと分かるようになってきた気がする。感謝の気持ちが分かるのはまだ先だと思う。
両親ともに古めかしく、そして口下手な人だ。子への愛情など照れくさくて表現できなかったのだろう。それでも家族だからといって何でも言っていいわけではないし、行間を汲み取れというのも限界がある。
私が家庭を持つようになったら、家を出ていく子供になんと声掛けをするだろうか。きっと寂しいだろう。
両親もその時同じ気持ちだっただろうと、今なら分かる。