毎年クリスマスが近づくと思い出す。自分宛に毎年必ず届くクリスマスカードと図書カード。
「メリークリスマス!沢山本を読んで素敵な大人になりますように」
そう綴られていたクリスマスカードは、今でも私の大切な大切な宝物。
届くのが当たり前だと思っていたそのプレゼントは、決して当たり前ではなかった。その差出人を知った時、切なくも、私は大きな愛に包まれて育ったのだと涙を流し、胸がいっぱいになった。
好きな本を買ってもらえるクリスマス。毎年楽しみにしていた
話は小学生の頃に遡る。
クリスマスにオモチャを買ってもらった記憶はない。私にとってクリスマスは「好きな本を沢山買ってもらえる日」という認識だった。
物心つく前に交通事故で他界した母に代わり、私は祖母と父に育てられた。
「好きな本を買ってあげるから本屋さんに行こう」
そう言って本屋に連れて行ってくれる父が大好きで、毎年クリスマスが楽しみだった。
初めて自分で選んだ本は、マッチ売りの少女だったと今でも覚えている。悲しくも、最後には少女が大好きなお母さんに天国で会えるというお話だ。
「死んでしまったお母さんに会いたい」という思いを抱えるその少女に、幼いながらも私は自分を重ね合わせていたのかもしれない。
しかし、その思いを口に出すことはなかった。
母の話をしようとすると、祖母や父がどこか悲しそうな目をするのを知っていたからだ。
顔も声も覚えていない母は、私にとって「いなくて当たり前の存在」になりつつあった。
毎年届くクリスマスカードと図書カードの差出人を知るその日までは。
差出人を知って、感謝の気持ちでいっぱいになった
差出人を知ったのは小学校4年生の時。
「そろそろクリスマスだから、今年も図書カード届くかな?」
と、ワクワクしながらその日を待っていた。それと同時に、
「なんで私だけ図書カードが毎年届くんだろう?誰が送ってくれているんだろう?」
と疑問も湧き始めた。周りの友達はオモチャは買ってもらっても、図書カードがポストに届いたことは一度もないと言っていたのだ。
うちと周りとでは、クリスマスの認識が少し違うのではないかと思い始めた。
そこで私は、図書カードの差出人が誰かを祖母に聞くことにした。
いつもは「今年も届いたよ」と、クリスマスカードと図書カードを私に直接渡してくれる祖母だったが、差出人を尋ねると、ある封筒を見せてくれた。元々クリスマスカードと図書カードが入っていた封筒だろう。宛先には私の名前が書いてある。
そして差出人の欄には「交通遺児奨学基金協会」の文字が。
それだけを見ても意味が分からず、「これって何?どういう所?」と祖母に問いかける。
すると祖母は、私の目をしっかりと見つめながら、
「それはね、家族を交通事故で亡くした子どもたちに送られてくる物なの。大きく立派に育ちますようにって。沢山の人があなたの成長を見守ってくれているんだよ。もちろん、天国のお母さんも」
と、静かに話してくれた。
私はそこで初めて母のことで涙を流した。会いたいと思っても会えず、知りたいと思っても聞くこともできず、ただただ心に隠していた母への思い。
知らなかった。これはその協会を通して与えられた大きな愛だということを。
大きく膨らむ悲しみ以上に感謝の気持ちでいっぱいになった。ありがとうと伝えたい。この人たちに恩返ししたい。そのために自分は何ができるのか?何をするべきなのか?そう思った時、クリスマスカードのメッセージが目に入る。
「素敵な大人になりますように」
その言葉が私を大きく成長させることになる。
今の私は、あの図書カードのおかげで在るのだ
それから、今まで以上に沢山本を読んだ。自然と文を書くことも好きになり、国語の授業ではいつも率先して手を上げ、発言した。
そのおかげで作文コンクールでは賞をいただくようになり、新聞に写真が載ったこともあった。高校の進路を決める時、学年主任に「あなたはいつか国語の教師か、文を書く仕事に就くのもいいかもしれないね」とすすめられたこともあった。
その道を進むことはなかったが、今も読書や文を書くことが好きなことには変わらない。
今の私は、あの図書カードのおかげで在るのだ。沢山の方の支援があったからこそ、今に繋がっている。支援してくださった方々へ、そして天国にいる母へ。
正直、素敵な大人になれたかは分からない。でも、ただ一つ言えることは「ありがとう。私は今も覚えているよ」。