飲食店でアルバイトをしていた私はフリーターだったので、盆も正月もなく働いていた。ドリンクとデザートを作るポジションを担当していて、製氷機の中の氷をザクザクとスコップで掘るので、万年腱鞘炎だった。
クリスマスも、戦場に出向くような気持ちで出勤していた。イベント時期の飲食店は戦いだった。

「結婚してください」のメッセージ希望で、頭の中に安室奈美恵が降臨

覚悟はしていた。着替えを済ませて、予約帳をチェックしようと更衣室を出ると、レジの近くに置いてある予約帳の周りにもう何人か集まっていて、一斉に私の方を見るなり「戸惑っています」と言う様に眉尻を下げた。
既に何か起こっている。心の中でほら貝を吹く音が「ボエエ~ボエエ~」と上がり、「戦じゃー!誰一人、死なずに帰るのじゃー!」と続々と武士達が叫びながら出陣した。

「どうした?」と聞くと、大学生の女の子が「メッセージの予約が入っています」と口を開いた。
デザートの盛り合わせのプレートに、希望のお客さんにはチョコペンでメッセージを書いていた。
“Happy birthday”や“合格おめでとう”、名前を入れたものなど、イベント時期でなくても散々やっている。
そんなに困惑することがある?と、予約帳を覗くと、「“結婚してください”のメッセージ希望」と書いてあった。
出陣した武士達の雄叫びがピタリと鳴り止み、代わりに普段は私の中にいないはずの安室奈美恵が「CAN YOU CELEBRATE?」を歌いながら降臨した。

とうとうこの日が来たか。
震える手でチョコペンを握りしめて書いた。
じっと見ると、この字はこれで合っているのかと不安になり、出勤するメンバー全員に確認させた。
早い時間から客席は埋まっていった。
すぐにオーダーに追われ始め、あっという間に安室奈美恵タイムが訪れた。

緊張した面持ちで運ばれるデザートプレートを、私はこっそり見守る

現れたのは、30歳前後の男女。
女性の方は、妊娠している様子で、お腹が大きかった。
角のテーブル席に案内をした。
サラダ、パスタ、リゾットと料理が運ばれていく。
刻々と時間が進む。
最後の料理の皿が空き、ホールスタッフがその皿を下げる。
そのテーブルが見える場所に、私はこっそりと立った。
緊張した面持ちで、女性スタッフがデザートのプレートを運ぶ。
心の中の安室奈美恵が歌う。
私も歌いたかったが、誰も幸せにならないであろうことがわかっていたので、やめた。
女性はプレートの文字を見るなり、「ほんとサプライズ好きだよね」と笑っていた。
男性は席を立ち、ひざまずくと、指輪が入っている箱をパカッと開けた。
女性はずっと笑っていた。困ったような、でも嬉しさがこみ上げている笑顔だった。

男女の気持ちを説教しようとも、営業中に聞いている暇などない

若い男性スタッフが2人、ひそひそと話していた。
「俺だったら、銀座とか六本木とか、もっとオシャレなところでやるけど」
駅直結のお店だったが、主要な駅ではなく、近くに住んでいる人か働いている人しか来ないような場所だった。
チッチッチ、これだからベイビー達は。分かってないなぁ。
私は唇を突き出し、説教をした。
主要ではないこの駅をわざわざ利用するということは、恐らくここがアクセスしやすい場所で働いていたり住んだりしているのだ。となると、銀座だの六本木だの、イルミネーションが豊かに飾られているような街は大体電車で1時間近くかかる。お腹が大きくなっている妊婦さんを、混雑している中に長時間連れ回すなんて、人の血が流れているなら、そんなことはしない。何より、あの彼女のスマイルが答えだ。
偉そうに一気にここまで喋りあげて振り向くと、もう誰もいなかった。
今は営業中、オーダーは止まらず入っている。
説教を聞いている暇などない。

何かとの戦いが終わり、瀕死状態の営業後、腱鞘炎悪化選手権では優勝

我に帰り、持ち場に戻ると、皿は今にも崩れそうな程に積んであり、ドリンクのオーダーの伝票の紙は古の巻き物のような長さにまで連なって溜まっていた。
誰も助けてくれない。
そんな日はこれまでもたくさんたくさんあった。各地で愛が生まれているような今日だって、私にとってはいつも通りなだけ。
負ける訳にはいかない。何と戦っているのかさっぱり分からないが、とにかく負けられない。
一心不乱に食器洗浄機を鬼のように回し、スコップで氷の山を掘り続けた。
途中で「そういう競技の選手みたいな動きしてますね……」と誰かが言っていた。
ならば優勝を目指すしかない。勝ちたい。

営業が終わる頃には、全員ボロボロの瀕死状態になっていた。
着替えもまともにできなくなる人が多く、更衣室の床には靴下や靴が散乱していた。

何もしてなくても右手首に痛みが走った。
腱鞘炎悪化選手権では大優勝した。
私が捧げた手首は、誰かの役に立ったのだろうか。
あれ以来、安室奈美恵が現れる事はなかったが、武士はしょっちゅう出陣した。
腱鞘炎も悪化し続けた。
だけど、くたくたな利き腕も、戦う自分も、誰かが楽しそうにしているクリスマスも、悪くないなと思った。