特集:わたしに旅が必要な理由

中国の長距離バスに、「天国」があった。緩やかな筆談の穏やかな時間

わたしに旅が必要な理由

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観光の思い出には霞がかかっても、旅先で出会った人は思い出せる

初めての海外一人旅は中国だった。

4日間、鉄道やバスに乗って浙江省と安徽省を旅した。当時は学生で、交通費と宿代を切り詰めた貧乏旅ではあったものの、中国の古い町並みや現地のグルメを堪能できた。
しかし、そうした「普通の」観光の思い出は、今では霞のかかったようで、細かく思い出せない。むしろありありと思い出すのは、旅先で出会った人たちのことだ。

旅先では移動の度に道に迷い、その都度地元住民の力を借りたからかもしれない。中国語ができないので、当然、現地の人とまともな会話などできなかった。
片言の中国語と、筆談と、ジェスチャーを最大限に使って全力でコミュニケーションに挑み、目的地までたどり着いてきた。周りをキョロキョロしている私を見て、相手から声をかけてくれたこともあった。
現地の人たちには感謝するばかりだ。おかげで宝物のような思い出がたくさんできた。

ここで会話を途切れさせるわけにはいかない。使命感に駆られた

そうした思い出の中でも、特に印象深い思い出がある。
高速鉄道に乗って上海から西へ進み、安徽省へ入ったときのことだ。安徽省には観光名所になっている古都がいくつかあり、それらを観に行くために長距離バスを待っていた。
すると、地元の人らしき老人が2人、こちらへ近づいてきた。挨拶をして、「お前は観光客か」「はい、日本から来ました」などと世間話が始まった。老人たちもバスに乗るとのことだったので、一緒にバスを待っていた。
その間も、老人たちは私に話しかけてきた。そこからは老人たちの言っていることが理解できなかった。私の聞き取り能力が皆無だった上に訛りがあったのだ。この旅で、数字すら聞き取れず唖然としたほどだ。
しかし、ここで会話を途切れさせるわけにはいかない、という使命感に駆られた。ここで会話をやめたら、私を見る2人の穏やかな顔が消えてしまう気がし、それを阻止したい気持ちになったのだ。
「私は中国語が聞き取れません。筆談しましょう」と、メモ用紙に書いて、ペンとともに2人に渡した。
それから、私がバスを下りるまで、緩やかな筆談が続いた。

「良い旅になりますように」。名残惜しい気持ちでバスを後にした

―前にもここに日本人が来たことがある。
―いつのことですか?
―3、4年前の話です。その人は研究のために来ていました。
―ここは自然が綺麗でいいところですね。
―ここはいい町で好きです。ところで、あなたはいくつですか?
―22歳で、大学生です。
―私には息子がいます。
―息子さんと一緒に住んでいるのですか?
―南京で仕事をしています。

読んで理解して、考え、書く。ゆっくりと、穏やかな時間だった。バスは緑豊かな山道や田舎町を走り、窓は黄色や緑色に染まった。老人たちは終始、優しく微笑み、彼らの書く字は、凛としているが、春の山の湧き水を思わせるような優しい曲線も備えていた。車窓からのどかな午後の日差しが差し込み、車内は木漏れ日の中のようで、ああ、きっと天国はこういうところなのね、と空想した。
車内アナウンスで我に返り、名残惜しい気持ちでバスを後にした。最後に老人たちは、良い旅になりますように、と最後に挨拶の言葉をメモに残して渡してくれたのだった。

あの時、まさしく人と真正面から向き合ったという実感が持てた

そういえば、あれから、あの「天国」を実感していない。
今思えば、あの「天国」を作り出した元は充実感だったのだ。言語の壁もあり、老人たちの「会話」を100%理解できたとはいいがたい。私も本当に聞きたかったことが上手く伝えられなかった。しかし、互いが理解しようと努め、わずかでも理解できた時はうれしかった。あの時は、まさしく人と真正面から向き合った、という実感が持てた。
あれは外国だからできた、と言ってしまえばそれまでだ。旅行という非日常が、私に思わぬ行動をさせた。そういう事はよくある。しかし、そんな単純な言葉で片付けたくない。あの旅を思い出してしまった今、今の私は何より「天国」を味わいたい。
腹を探り合い、距離感を測り合う。なぜ今はよそよそしい人間関係の中にいる? 当時はそんな複雑な事を考えずに、「自分」を全面的にぶつけていた。「自分」はどうやってぶつけるのだっけ……? 最近は旅行に行く機会もめっきり減った。あの頃の手ごたえが思い出せない。
ああ、旅がしたい。

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