人と比べてしまう癖は悪いことでもなく、こいつはこんなに愛しいのに

寺山修司の言葉で「役に立たないものは 愛するほかはないものだから」というものがある。わたしが知っているのはその一言だけで、その詩集を読んだこともなければ興味を持ったこともない。
それでもなぜか記憶に残り続けるそれは、わたしの持つ役に立たないものに、おまえは愛されることもできるのだよ、と声をかけられる道を与えてくれたのだ。

そんな前置きはさておいて、わたしの持つ役に立たないもののひとつに、なにかと人と比べたがる癖がある。あの人はわたしと違ってあれを持っているなとか、わたしはこの人の持たないこれを持っているなとか、そういうことだ。
まわりと比較することはどうも悪癖だとされることが多いけれど、果たしてほんとうにそうだろうか。悪癖だとしたら、わたしがこいつに救われたというのは嘘なのだろうか。こんなにもこいつは愛しいというのに。

わたしは他者との違いを知り、自分を愛すべきだと本能でわかっている

昔からまわりとの違いを感じることが多かった。
たとえばそれはすこぶる頭がよいという、見まごうことなき長所もあったし、なぜかどうやっても学校へ行くことができないという、どう見ても欠点でしかないこともあった。
そういうがたつきは、成長して大人になった今でもわたしの各所に形を変えて散りばめられており、こういう文筆に対する強さだとか、あるいは他人の感情に対する共感性の皆無さとか、そういうのがあった。

まわりの人とこういう部分が異なるなあと感じると、わたしはそのまわりの人間をよく矯めつ眇めつし、こんな理由だから違うんだな、こういう足るものと足らないものがあるんだな、とひたすらに比べた。
それはとても面白いことだったけれど、どうもそれがうまく「面白い」というプラスの感情だけでまとめきれないこともあった。つまるところ、これがない!あれがない!わたしは人よりだめなんだ!と泣いてしまうことも多々あったのだ。

それでもわたしは人と比べることをやめられなかったし、やめなかった。どれだけ自分を痛めつけようが、わたしは自分の中にある他者との違いを、どれほど些細なものであっても知っていかねばならないと思っていたからだ。わたしのようなだめな人間は、わたしがいちばん深く知って愛さねばならないと、本能でわかっていたのだ。

わたしがまわりを見るように、まわりもわたしを見ている

唐突なナルシズムじみたものを発揮したところで、そろそろこの話のオチに向かおうと思う。
わたしがそうして何年も何年も自分と他人との比較を続けていると、なんだか人との関わりに異変が見えてきたような気がしてきた。どうもいまいちよくわからなかった人の心が少しだけ理解できるような気がしてきたし、なんだか相手側もわたしに興味を示してくれている気がする。
どうやら面白いことに、わたしが心の内にこもって他人と自分を比べ続けたり、たまに泣いたり、自分を愛してみたりとしている間に、わたしは人に興味を持ちやすくなっていたし、持たれやすくもなっていたらしかったのだ。
はじめは自己表現のテクニックでも身についたのかと思っていたが、しばらく観察してみるとどうやらそうではなく、わたしがあまりにもまわりを見ていたおかげで、まわりもわたしを見始めていた、ということのようだった。なんだかフリードリヒ・ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という言葉そのままであった。

役に立たないものだと烙印を押したのは、悪癖ではなくわたし自身

こうして外に向かって動けるようになって、生活が満たされ始めたとき、ふとした瞬間に気付いた。ああそうか、と思った。
わたしが役に立たないものだと烙印を押したのは、悪癖ではなくわたし自身だったのだな、と。だから捨ててはおけなかったし、愛し愛されることでわたしは、わたしたちは救われたのだと。
自分を知り、自分を愛し、自分と向き合う。そうすることで人ははじめて動けるようになるのだ。わたしはそれを、長い時間をかけて知っていったらしかった。