私には、一人になれる場所がほしかった。

この社会はいつも、誰かと一緒にいることがいいとされている。誰かに見られていることで安心感を覚えたり、人が人を評価して成長していくシステムが出来上がっている。
けれど私にはどうもそれが合わないらしい。

自分のペースを最優先したい私にとって、好条件なのが一人旅

自宅では、家族がいる部屋で勉強をし、学校では、仲間と群れることがよしとされる環境で、職場では、同僚との報連相を積極的に取るためにペアで動くように、と常に複数人がいるなかで過ごすことを強いられた。

知らない人ならまだしも、知っている人が多いと人見知りが盛大に発動する。どうしても素の自分が出せず、いつもどこか猫をかぶっていたり、着飾っている自分がいた。これによって気疲れが日常となり、疲れ、気力の消失が私のベースとなった。

そんな私にも、唯一誰にも気兼ねなく羽を伸ばせることがあった。
それが一人旅。

旅は誰かと行くのも楽しいけれど、人と土地勘のない場所へ行くのはいつも以上に気を使う。気の知れた友達でも、いつも一緒にいる家族でも。
1人なら、それがない。だからいい。
自分の行きたい方向へ、観光したい所へ、泊まりたい宿へ。全部叶えられる。

何人かで行ったほうが費用は安く済むかもしれないけれど、そう思う気がするだけかも知れない。けれど、費用が高くても断然いいと思える旅の仕方だ。
人が多い観光地だが、知らない人ばかりで知り合いに会う確率だって少ない。1人で、自分のペースで過ごしていけることが最優先したいことだから、環境としても条件が揃っている。

土地勘がなくても、1人ならそれも経験として探索出来る。知らない街中を、マップを見て歩くことでスムーズに目的地へたどり着けると嬉しい。道を間違えても、長い時間ぐるぐると同じ道を歩いていても、それは経験だから許せる。
仲間がいれば、やれ疲れただの、やれ道知らなかったのかだの心のなかで思っていることだろう。こっちはこっちで、ろくに自分のマップすら開かず人の後ろをついていくだけなのに、と思っているのには気付かずに。

大人になってひとり暮らしを始めて気付いた、私に必要なもの

私が昔、よく行っていた方角は決まって東。東京や横浜へ赴く。
田舎者の届かぬ憧れで、ちょっといい気になれる背伸びだった。ビルが立ち並ぶ都会の喧騒が、自分を“出来る女”にしてくれそうな気がしていたから。東京駅に降り立つだけで、人の多さにワクワクが止まらなかった。

大人になってひとり暮らしを始めると、少し感覚が変わってきたように思えた。
住みはじめた場所は、これまで育ってきた地元から手を伸ばしてきた都会。雑踏の中にのまれているとまでは言わないが、ビルが続く街を歩いていたら気付いたことがあった。

たまには緑が見たくなる。
田舎に帰って生活がしたいとか、どこかに永住したいとか、そこまで強くは思わないが、自分には適度に緑のある場所が必要なのだと感じた。

春の桜が満開な沿道を歩き、桜に埋もれながら、小さな花やその土地の空気を吸う。1人なら、足元にさりげなく咲いている花にも目を向けられる。写真を撮って、それを愛でて、幸せを感じられる。

夏の暑さは何処へ行っても変わらないけれど、緑が生い茂る木々の木陰は視覚からも、体感も涼しさを連れてくる。心ゆくまで涼んで、また暑さに挑んでいく。

秋には紅葉がみたいと電車を乗り継ぎ、はじめての場所へ。違うときには新幹線にのり京都の竹林でマイナスイオンを浴びた。

地元へ帰るときだって、今となってはちょっとした旅行のようなもの。
冬は電車から見える田畑の銀世界に心躍らせる。体に刺さるような寒さも、自宅で過ごしていては気が付くことはできないもの。

旅をすることは「新しい自分」と出会い、自分をリセットする機会

一人旅は、自分が本当に幸せと感じることや、今したいことを明確にしてくれる。そしてそれは案外ずっと変わらないものなのかも知れないと気付かせてくれる。旅をすることで、自然や土地に触れることで、自分をリセット出来るのだ。
同時に、新しい場所へいくことのワクワクも感じる。このワクワクも、幸せや本当の自分に気がつくヒントとなっているのだろう。だから私には旅が必要なのだ。

都会で暮らしていてもなお、ワクワクすることに変わりはない。場所が変わっても。自分がこれからどうしていきたいかを考えた時、ワクワクを大切にしていきたいと思った。ワクワクすることを最優先に生きていく。そう決めたからこそ、これからも私に旅は必要なのだ。

私はずっと旅をして、ワクワクを探し続ける。