「銃はいけるけど刃物はムリ。リアルに想像できちゃうとゾクゾクしない?」これは、私がグロ系コンテンツを勧められたときの判断軸。

大切な人の数に比例してふくらむ「恐怖」は、生活の一部となった

小学生の頃からミステリー小説が好きで、殺人も誘拐も気にせず読んでいたが、残虐な描写だけはどうも苦手だった。刑事ドラマで見かける銃撃戦は平気。しかし、リアルな痛みを想像してしまう刃物や暴力での表現は、話を聞くだけで身の毛がよだつようだった。

今思えば、あの頃は探偵の観察眼と思考力、犯人を追い詰める過程に大興奮して、作中で奪われた命など気にもとめていなかったのだろう。それもそのはず、ミステリー小説において、死は始まりに過ぎないのだから。事件が起きなければ、探偵は必要ない。

十数年の時を経て、小説が大好きだった女の子は社会人になった。皆と同じように受験に苦しみ、大学生になれば世界を広げていった。

一つ皆と違ったのは、この年では経験しないような人との別れを、幾度も味わったことくらい。どれも大往生とはいえない悲しい出来事で、いつしか“死”というものは暮らしのなかで存在感を増していった。

「また会おう」「元気でね」「いってらっしゃい、気をつけて」と、軽微な別れの度に「もう二度と会えなくなったら」と際限のない恐怖が迫る。大切な人の数に比例してふくらむ恐怖は、常に頭の数%を占める生活の一部となった。

人気の漫画を読み、「死が軽んじられている」という嫌悪感を覚えた

死を傍に感じていたからこそ、違和感を覚えたのだろう。人気だと勧められた不倫漫画を読んでいた時、主人公が異性に苦手意識を持つ理由として、過去の恋人の死が描写されていた。

作者としては必要な場面かもしれないが、仮面夫婦の駆け引きを楽しんでいた一読者としては、あまりに唐突だった。困惑から苦笑いをこぼしつつ、胸にじっとりと充満する違和感を抱え話を読み終える。

直後に湧き上がってきたのは「軽んじられている」という巨大な嫌悪感。果たして、ストーリーを成立させるための要素が、死である必要は本当にあったのだろうか? 最たるものという理由で選んではいないかと問いたくなる。

死との距離が、人よりも近いと自覚しているつもりだったが、それを除いても「その子、殺す必要あった?」とドン引きしてしまったのだった。

残虐な描写の作品を読む前に、一度立ち止まって考えてほしい

近年、人気を集めるコンテンツの中には、残虐な描写が売りの作品もあると聞く。長く続く不景気やコロナ禍での閉塞感から、感じたことのないような刺激を作品に求めているのだろう。

気持ちは分かるが、一度立ち止まって考えてみてほしい。私達は、命が軽んじられたコンテンツの波に飲まれ、逆説的に死を身近に感じてはいないだろうか?

もちろん、間違いなく死は身近であり、当たり前である。だからこそ命を大切にするはずなのに、現代のコンテンツは死への感度を鈍らせ、無感情へと導いているような気さえする。死との距離感を見誤りエスカレートしていった先には、どれほど凄惨な社会が待つのだろうか。