新年に向けて宣言する。
ずっと漫画やアニメが好きだった。
「お前、まだそんなの好きなの?」
叔父からそう言われたとき、私は「だって好きなんだよ」と返した。子どもの言い訳のような「だって」。反論にもならない。でもそれが正直な気持ちで、私には本当にそれだけだった。
昔から文字を読んだり絵を見たりすることが好きで、絵本に始まり、漫画にハマった。本格的に漫画を集め出したのは小学生の時で、同じく漫画好きの父の影響が大きかったと思う。
好むジャンルは違ったが、父とは気が合った。母は漫画の良さなど欠片も分からない顔をしていたが、買い与えると私が大人しくしているので、この趣味に反対することはなかった。
しかし両親もまさか、四半世紀もその趣味が続くとは思っていなかっただろう。
あの頃、漫画好きは目立たず、漫画の話ばかりする暗い人間を指した
中学生、高校生と年代が上がっても私の漫画愛は衰えず、週刊誌二冊、月刊誌二冊を購読していた。誰にも「買い過ぎだ」と言われなかったのは、我が家には先程の父に加え、弟という頼もしい漫画好きの味方がいたからだ。
学校でも、私が所属していた美術部は漫画やアニメが好きな人たちが集まっており、毎日の部活時間がお喋りで終わることもしばしばだった。顧問が部活中、生徒にけんちん汁を振る舞うような緩い人だったのも一因だろう。
それでも、私は教室ではなるべく漫画の話はしないようにしていた。友だちがそういった話題を出してくるときは周囲を見渡し、声を抑えて早く会話を切り上げるようにしていた。
単純に恥ずかしかったのだ。
あの時代、漫画好きはイコール教室の隅で目立たず、騒がず、漫画の話ばかりしてる暗い人間を指していた。私に至っては当たらずとも遠からずだが、クラスメイトにそう思われていることがとてつもなく恥ずかしかった。
好きなものを大っぴらに好きと言えるのは、なんて素晴らしいのだろう
少し前から漫画やアニメなどのオタク文化は一定の市民権を得ているが、そうなるまではたかだか趣味の公言すらままならなかったように思う。
近年は本当に素晴らしい世の中になった。好きなものを大っぴらに好きと言えるのはなんて素晴らしいのだろう。
私も職場では漫画やアニメが好きだと公言している。このキャラクターのここが良いなどと昼休憩中に語ることもある。
もう滅多に自分の趣味を恥ずかしいと思うことはない。「まだ漫画なんて買っているの?」「まだこんなアニメ見ているの?」。そう言われる肩身の狭さからやっと抜け出せた。この何よりも大切な趣味が、一般的な、「普通」と比較されることがなくなった。
私が私を恥じることがなくなった。思えば馬鹿みたいな話だ。自分の趣味を心底好きだと思いながら、私は同時に心底疎ましくも思っていたのだ。
確かに周囲がおしゃれや彼氏の話をする中、そういった話題に入れない自分が嫌で仕方がなかった。無理矢理話を合わせたことだって一度や二度じゃない。
それでも趣味はやめられなかった。
十年以上昔の読み切り漫画の切り抜き。紙が劣化し、日焼けしてしまったコミックス。それらを私は捨てられない。
だって好きなのだ。
私の「普通」を守ってくれた誰かのように、壁を壊すためペンを持つ
たとえばこの趣味が市民権を得られなかったとして、存在は隠したかもしれないが、きっとやめはしなかった。趣味をやめることは即ちこれまでの人生を捨てることだ。
そう思うからこそ繰り返す。今の時代は本当に素晴らしい。
時代を変え、私の中の「普通」の抑圧を和らげてくれたのは、同じ趣味を持つ、名も知らぬ誰かだ。漫画やアニメ好きにマイナスイメージが付きまとっていた時代に「それは違う」と言ってくれた人たち。
誰かから押し付けられる「普通」に良い思い出などない。けれど彼ら、彼女らは「好きなことを好きだ」という「普通」を私にくれた。私が漫画やアニメが好きでいることを「普通」だと、守ってくれた。自分では壊せなかった壁を一足先に向こう側から崩してくれた。
その人たちのおかげで、私は自分の意志と足で崩れた壁の向こう側に駆け出せている。今では堂々と好きなものを好きだと言える。
恥ずべきは趣味の内容ではない。それを好きだと胸を張れなかった自分だ。
今年の年末、私は三十歳となる。かなり遅れたが、これからは私が壁を壊す側に回ろうと思っている。手に取るのは剣でも盾でも弓でも何でも良い。ペンが剣より強いならそうしよう。
守られてきた私は、これからは誰かの「普通」を守っていきたい。