私は恋ができない人間なんだ。
それを悟ったのは、高校一年生の秋だった。
全校生徒を体育館に集めて行われる講演会みたいなもので、同性愛者の方の話を聞く機会があった。
今からもう四年も前。まだ「LGBT」という言葉すら十分に浸透していなかった時代だったと思う。

講演会の終盤、その人が話した「一言」は私の心を揺るがすことに

講演会のほとんどは、その人の過去についてだった。同性愛者ということで家族をはじめ周りの人から冷たい態度を取られたこと、今は素敵なパートナーに出会えたこと。くすくすと隣で笑う男子に嫌悪感を抱きながら、私はそれらの話を淡々と聞いていた。
私を大きく揺らがすことになる、その決定的な一言は講演会の終盤に発せられた。

「世の中には、LGBT以外にもたくさんの性的志向があります。たとえば、恋愛感情を抱かない『アセクシャル』など」

正確には、恋愛感情を抱かないのは「アロマンティック」であり「アセクシャル」はまた少し異なるものなのだけれど、それを聞いた私はまるでパズルのピースのように、何かがぴったりとはまる感覚を味わった。

高校生ながらに、むしろ高校生だからこそ、恋愛ができない自分にかなりの焦りを感じていたのだろう。
私は恋愛感情を抱かない。そういうセクシャリティなんだ。
「自分は性的マイノリティだ」と知ったときに抱く感情の正解なんてわからない。けれど、少なくとも私はそれを聞いて安心した。

そんな私なのに、どうしてだろう。
自分のセクシャリティを知ってから早四年。今さらながら「恋」の片鱗みたいなものを私は掴んでしまった。

「これは恋じゃない」その一方で彼のことを考える時間は増えた

彼のことをいつから特別に感じていたかを、はっきりとは覚えていない。
初めて話したのは、今年の六月に行われたサークルの遠足。
同じ班になった私たちは、初対面ならではの多少の気まずさを感じながらも他愛もない会話をしていた。その時は本当に彼のことは何とも思っていなくて、「とりあえず仲良くなろう」と私が一方的に話しすぎてしまったという記憶だけが残っている。

なんとなく彼を意識してしまっているなと気づいたのは、七月の初旬だった。
サークルの活動で、私たちは日曜の昼間から小さなライブハウスに集まっていた。開場前の空き時間に五人程度で輪になって雑談をしているとき、偶然だろうけど私の隣には彼がいて。みんなと話すのを楽しいと感じながら、なぜか「彼ともっと話したい。でもそれを悟られちゃいけない」とそわそわしている自分がいた。

それから二ヶ月が過ぎて、私は彼を二人きりの食事に誘った。彼と話すのは本当に楽しいのだけれど、どきどきはしない。彼の隣にいるとき、私の心臓はいつだって落ち着いている。
やっぱりこれは恋じゃないんだ。そう思う一方で、一日の中で彼のことを考える時間が日に日に増えていった。「私は人付き合いに熱心になれない」と自分でも思っていたはずなのに、気づけば毎日のように「彼に会いたい」「話したい」と思っている自分がいた。

セクシャリティは自分の確かな一部だけど、足枷になってはいけない

私の話を聞いた友人たちは、口を揃えて「恋してるね」と言う。
でも、お前が彼に抱いている感情は恋なのか?と聞かれても、私は「はい」と頷くことができない。
怖いのだと思う。恋をすることではない。自分の一要素であった「アロマンティック」を手放すことが、私はきっとどうしようもなく怖いのだ。

「アロマンティック」という肩書きを失ったら、私はまた自分がわからなくなる。「自分は何なんだろう」と不安に揺られていた頃の私に戻ってしまう。

セクシャリティって何だ。改めてそう考えてみると、それは自分の確かな一部で、時には私のように安心材料にもなって。でも決して、それらが足枷になってはいけないと思うのだ。「私は〇〇なんだから」と鎖で自分をがんじがらめにするのは間違っている。

セクシャリティは変化するものだ。
ずっと恋なんてできないと思っていたけれど、彼と出会ったことで私の中で何かが変わったのかもしれない。まだ私は自分の中に宿る感情を「恋」と呼ぶことができないけれど。それでも、その変化を私は受け入れたい。大切にしたい。

2022年私の宣言。それは、変化を恐れず、変わりゆく自分を愛すことだ。