旅というものが嫌いだった。
どれくらい嫌いかというと、中学と高校の修学旅行にはいっていない。
体調が悪いわけでもなく、なにか特別な家庭の事情があったわけでもなく、ただ「いきたくない」と駄々をこねて休み、積み立てた旅費を返金してもらった。まあ、要はサボりだ。
それ位旅というものが嫌いだった。
けれど大人に……つまり、行動に制限が掛からず保護者の同伴や引率の教師がいなくともホテルに泊まれ、セーラー服をまとっているころのお小遣いでは到底まかなえない新幹線代を自分の給与でまかなえるようになり、自分の旅嫌いは「食わず嫌い」的なニュアンスの嫌いだと気が付いた。

訓練のように窮屈で、規則に束縛される修学旅行に行きたくなかった

学生時代の旅行というものはとても窮屈であった。
8時に校門前集合バス出発、11時にお寺に到着するので各クラス並んで見学、12時に食事をとり、12時45分に再びバスに乗車する……といった具合にすべてのスケジュールが決まっている上に、私の通っていた学校には自由行動というものがなかった。まるで蟻のようにずらずらと何をするにも2列に並んで行動をした。
その上規則も多く、漫画やケータイは持ってきてはいけない、飲んでいいのは先生から配られるお茶だけ、集合時間の5分前に行動する、遅れないように「5分前行動の5分前行動が望ましい」といった、ちょっとした訓練のようだった。
修学旅行にいきたくない。
当時はぼんやりとそう抱き、親との休む交渉に勤しんだけれど、大人になった今思うのは旅行には行きたかったけれど、規則に束縛されるのが嫌という気持ちがそれを上回った……といえる。

旅先で自由に行動し、地域の生活を少し拝借する大人の旅は悪くない

大人になった私は最近、旅というものは案外悪いものではないと痛感している。
昨年は香川県に半ば仕事も兼ねてだが足を運び、今年は古い友人を訪ねて愛知県へと飛んだ。飛行機や新幹線の時刻といった縛りはあるものの、ずらずらと集団で行動したり、あれをしてはいけない、これをしてはいけないのない旅は、随分心地がよいものだとキヨスクで買ったほろよい片手に思った。
当たり前だけれど、旅先にも人と生活がある。知らない土地に行ってすれ違う人を横目に、「ああ、この人とすれ違うことは、もうこれから先の人生でないかもしれない」と感傷に浸る。
私の旅は基本日帰りなので軽装備な為、個人商店でお菓子をひとつ買うとまるで私をこの地域の人のように接してくれるが、本当は数時間後にはここにはいない。
そして次いつ来るかわからないこの地域に、また何かの縁で訪れた際にこの店が存続しているかわからない。
店主の腰のなだらかなカーブに寂しさを覚える。観光名所やアミューズメントに行くよりも、聞きなれないイントネーションで子供を叱る母親の声や、見慣れない駅名を見つめながら、一両編成の電車に乗り込む女子高生の「私先輩と付き合うことになったの」「え!ほんと?おめでとう」といった恋愛話に耳を澄ませる。
そんな同じ日本でありながら、気軽に出向くことのできない地域の生活を少し拝借して、しみじみと味わうのはなかなかオツなものである。

大人は出会いに行かなければ出会えない。だから私は旅に行く

また、旅といっても別にキャリーバッグ片手に遠出するだけが旅ではない。
私はよく小旅行に興じる。例えばノープランで知らない駅に降りてみるのだ。別に近い駅でも降りたことがなければいい。毎日通過するだけで「次は~〇〇」と耳によくなじんでいるものの、そこに何がある駅か分からない駅に降りて、東口でも西口でも直感で降りて、ガイドブック、インターネット、今では調べるツールが山ほどあるがあえてそれを無視してふらふらと直感だけを頼りに歩く。当然縛りも規則もない。
路地に入り、偶然見つけた和菓子屋さんで大福をひとつ買ってみたり、ボスらしき太った野良猫に話しかけてみたりする。
勿論なんの収穫もない風俗の無料相談所や煙草屋、5年も前の閉店を告げる張り紙が雨風に耐え、張り付いたままの中華料理屋にしか出会えないこともある。
それはまたそれでいい。

年齢を重ねるにつれて、新しいものとの出会いがなくなってきた。なにをするにしても何回目かでは新鮮味に欠ける。
子供のころは初めて乗る新幹線、初めて飲む炭酸ジュース、初めて聞く洋楽、何もかも知らなかったのに、知っているものが増えるとつまらなくなる。でも大人はただ待っているだけで新しいものには出会えない。出会いに行かなければ出会えない。
だから私は旅に行く。