わたしに旅が必要な理由。
それは、年齢を重ねるにつれて変化しているのかもしれない……と、このエッセイのテーマについて自分の経験や考えを綴っていて感じた。

最初に結論を述べると、私は、年齢を重ねるにつれて、「自由」を望むわがままで、でも時には誰かと交流したい、繋がりたい。実に複雑でややこしい存在になっても、誰の迷惑にもならないから、一人旅をしているのだと思った。

ニュージランドでのボランティアで感じた想い。懐かしさもあった

そもそも、私の趣味に旅行(主に一人海外旅行)が加わったのは、大学2年生の春休みに一人でイギリスへ旅行したことがきっかけだった。
その旅行の前、大学2年生の夏休みに、大学を通してニュージーランド・オークランドへのボランティア活動に参加した。内容は、幼稚園で働くこと。働くといっても、子供たちの遊び相手になったり、先生の補佐を務めたりと、大したことはしなかった。

しかし、そのボランティアに参加した4週間で、私は “純粋なニュージーランド人”以外の人とも多く交流し、「今後もいろんな人種の人と関われる国に行ってみたい」という思いを抱いた。
実は、私はカナダ生まれで(両親は日本人)、6歳になる直前までカナダに住んでいた。このボランティア活動で、幼稚園で様々な人種の子供たちが一緒に遊んでいる光景を見て、懐かしさを抱いた。その懐かしさを忘れずにいたい、という気持ちも抱いた。
また、当時家庭の事情で留学を断念したことから、「自分一人で海外へ行き、英語のスピーキング力を高めたい」という思いも強くなった。そのため、一人海外旅行の行き先は英語圏であることが多い。

イギリス旅行では、カナダ在住時代の友人を訪ねたり、「憧れの海外大学」としてオックスフォードやケンブリッジのいろんなカレッジを見てまわったりした。どこへ行っても、いろんな人種がいて、自分もこの中にいるんだ、と思うと、何とも言えない高揚感を抱いた。

いつしか、旅の目的は自然豊かな「非日常」を体験することになった

帰国後、次は何をしたいか考えた時、「オーロラを見たい」と思った。どこで見られるのか調べていたら、なんと自分が生まれた国カナダでも見られるということを知った。しかも、真冬でなく夏の終わり頃でも見られる。
これは素晴らしい!と感じた私は、大学3年生の夏休みに、カナダへ行った。
カナダといえば、カナディアンロッキー。新鮮で澄んだ空気を吸い、色彩豊かな光景を見て、「非日常」を経験したいと思った。実際、現地では無事にオーロラを鑑賞でき、カナダという広大な国ならではの壮大な山々や、美しい湖を目にすることができた。

この頃から、私の旅行の目的が「自然豊かな “非日常”を体験すること」となり、旅行先では各国の国立公園等を観光することが増えた。
もちろん、今でもそれは変わらない。映画館やショッピングモールが近所にあり、生活に困らない場所に住みたい私にとって、旅行先で数日間自然に触れることは、特に精神的な面で非常に大切なのだ。

もてなされる側の旅行先では、自分の性格に文句を言う人もいない

しかし、このエッセイを書いていて、その思いは「表向き」なのではないかという気持ち、疑念のようなものが出てきた。
なぜそう思うのか。それは、社会人となって自由な時間が減り、羽を広げたいという願望を抱いている一方で、いざ自由に一人で活動し始めると、寂しさを抱くことがあり、その寂しさは、旅行先ではすぐに埋められ、そしてまたすぐ自由になれる、と気がついたからだ。

何が言いたいのかというと、旅行先では周囲の人、観光地のスタッフや自分と同じ観光客に、多少のわがまま、例えば「ここへ連れてってほしい」とか「ちょっと話がしたい」と言ったら、それを叶えてもらえることが多い。自分は「もてなされる側」だから。相手にちょっと嫌な顔をされても、住んでいる国が違えばもう二度と会わないかもしれない。だからどうでもいい。そう思える。

一人になりたいから数日海外で過ごすことにしたのに、時に寂しくも感じる。そしてその寂しさは、割と簡単に埋められる。そしてそのこと、つまり「自分勝手でややこしい性分」に文句を言う人はいない。

純粋な目標・目的を抱いていた学生時代の自分が眩しく思える。しかし、これが、わたしに旅が必要な理由なのだろう。
なんと迷惑な……と思う人が多いと察するが、法律違反はしていないし罪も犯していない。物事を実行する理由は人それぞれ。今後も、私のこの理由は変わらないだろう。