「ドラゴンボール」の魔人ブウが、チョコレートにして食べた人の能力を得たように、「千と千尋」のカオナシが、丸呑みしたカエルの声を操れたように、私は本を読むことで文章が体内に取り込まれ、私のエネルギーになっていると感じています。

幼い頃年に一回のペースで読んでいた大好きなあの本も、適当に買って読んだら思いの外面白かったあの本も、内容がグロテスクでお母さんに買ってもらえなかったから本屋の立ち読みで読破したあの本も、確実に血となり骨となり私の中に存在している気がします。
そしてそれらは人生のいくつかのタイミングで、私の指標になってくれています。

以下に共感できるかが「名作」の基準だった私が出会った一冊の本

そんな中でも一際私に影響を与え、事あるごとに思い出さずにはいられない一冊があります。それは「遁走状態」(ブライアン・エヴンソン著/柴田元幸訳/新潮社)です。

この本は短編集で、19の物語で構成されていますが、全ページ一貫して奇妙で、不気味で、心がえぐられるような気持ちにさせてくれます。

ただのホラーでもミステリーでもありません。一言で言えば異常者の日常を主観的に体験させてくれる物語集です。猛烈に解像度の高い怖い夢とも言えます。
なので読むと私も異常者(予備軍)なのでは……?と思うときもあれば、全く分からん……と感じるときもあります。自分の心理状態が今どのくらい悪いか分かるバロメータの役割も果たします。  

私はこの本に出会うまでは、どのジャンルの作品も自分の感性によく似たものを好んで選んでいたように思います。いかに共感できるかが、私にとって「名作」の基準でした。
出会う人達も例外ではなく、どれだけその人が自分と似ているか、共通で好きなものがいくつあるか、知らず知らずそういうふうに選り好みしていました。

手に取った本で感じた強烈な余韻は自分だけでは得られない体験で

しかし、表紙に惹かれて何気なく手に取ったこの「遁走状態」は、読んでみると私の理解できる範疇では全くなく、共感など出来る余地もなくあっという間に読み終わり、強烈な余韻を残しました。ただそのとき「共感できない/理解できない」ということがこれ程快感であるのか、と感じました。自分だけでは絶対に得られない何かを得た気分でした。

それ以降、私はこの体験の中毒になり、共感できなさそうな作品を探すようになりました。
人間関係にも影響を与えました。以前は避けていたような、なんの共通点もない人も、むしろ興味深く感じてきました。更にそんな人が私には到底思いつかないことを言っていると「なにそれ!!!」と飛びついて、もっと話を聞きたくなります。

無理に共感や理解をすることは無駄な労力に。そのままにする大切さ

ただ、どんなに最初は共感できないと思っていても、作品を鑑賞していく毎に、またはその人となりを知っていく毎に、段々すんなり共感できる部分があることに気付くようにもなりました。この作業もまた、私に快感を与えました。

でもそんなことを日々していると、中々「全く共感できない/理解できない」を得られる機会が減ってきてしまいました。その感覚が枯渇してくると私はまた「遁走状態」を手に取ります。たまに「なるほど」と思うときもありますが、大抵は理解できません。そして読み終わると大満足しています。

よく世間で言われている「多様性」という言葉も、この奇妙な快感の先にあるのではないかと思います。「共感できない/理解できない」ものを変に理解しようと自分の思考に無理やりねじ込めてみても、それは無駄な労力のように思います。

「共感できない/理解できない」はそのままにしておく、私は「遁走状態」という本からそのような楽しみ方を得ました。確実にそれが大きなエネルギーとして、今も私の体内に存在しています。