明日は、大学の卒業式。バイトが終わってから、東京駅に向かった。
夜22:00。東京発。コロナ禍の大手町。外を歩く人はいつもより心なしか少ない。
私は、大学の卒業式に自分の好きな場所に行く。大学の卒業式の日に一人旅を決行するから。

「終わりよければ総て良し」を思い出すような学生最後の日が嫌いで

卒業式。それはすなわち学生最後の日である。
学生時代に集まったのが「飲み会」「打ち上げ」であっても、卒業式、その儀式の後に集まると、それは「同窓会」になる。
同じ学窓にいる、最後の日。境目の日。

小、中、高と、その最後の日がずっと苦手だった。というか、嫌い、だった。

「ありがとう」「ずっと友達だよ」「卒業しても会おうね!」
本当に仲が良いと思っている人との間柄なら、そこまで気にならない。
「最後だから」が漂う、あの感じ。私のモヤモヤは、そこなのだ。

「終わり良ければ総て良し」ということわざを思い出すような感じ。
大変なことばっかり、喧嘩もしたし、雰囲気が悪くなっちゃうこともあったけど、でも「最後」がよければいい思い出だよね。
そんな空気を纏う日、今までの綻びを「最後だから」で溜飲を下げて、いい思い出にしようとする日。
学校を卒業したら二度と会わないかもしれない、会わないであろう人達がほとんどだろう。
それを、どうして「最後だし」「記念だし」と写真に残すのだろうか。
楽しかった学生生活!と学生生活を締めくくる一文と共にその一枚で、一言で、
学生生活の中に残る不透明な澱はなかったことにされるのだろうか。
私は、「最後」なんてフィルターで補正を掛けられたくない。
いい思い出になんかしてあげない。

だから、深夜の東京を抜け出して高速バスに乗った。

苦い思い出を忘れたくない。そんな想いで乗り込んだ深夜バス

中途半端な友達だったり、別れた元カレ、気まずいあの子。
なんとなく距離を置いたグループ。
同窓だと何かしら、どこかしらで繋がっている。「最後の日」くらいはその子たちともうまくやり取りして、写真を取ったりして、学生生活を締めくくる。
すべてはいい補正にして、「楽しい学生生活だった!」にするために。

私が悪いことをしたのかもしれないし、相手にされたのかもしれない。きっと両方ある。人間関係の澱は相手が全部悪かったからとは、思っていない。私の思い込みで、相手はあんまり悪くないことも……あったかもしれない。

苦い部分を忘れたくなかった、そして出来れば、相手にとってもただの「いい思い出」になんかなりたくなかった。
口論して、でも共通の知り合いの前では世間話くらいするようなあの子にとって
苦いままでいたい。

だから、深夜バスに乗った。
ワクワクしていたからか、少し不安だったからか、よく眠れなかった。
高速道路のライトのオレンジ色をよく覚えている。

何人かから、「明日の卒業式、一緒に写真撮ろうよ!」と来ていた。
なんだかあのCMだなと思いながら、卒業式には行かないよ、と返信をした。
「一人旅に出てるから、今日は行けないんだ」
「ごめんね」はいわない。

いい思い出になんかなってやらない。逃げではない旅に出た日

卒業式の日に行ったのは、自分が学問をするきっかけになった人の生誕の地。
卒業式の時間にその地に自分の足で立てるように電車の時間も調べた。もちろんバスの時刻も調整した。
卒業式の時刻、皆が袴を着て、キャンパスで写真を取り合っているだろう時刻に、私は関西の、電車が1時間に2本来るくらいの町にいた。

私はいい思い出なんかになってやらない。
私は、「最後だから」と補正がかけられる場所を逃げる旅に出た。
逃げではない。だって、旅だから。
1泊した次の日、深夜バスで帰った。東京に。
私は大学生を発つけれど。跡は濁したままで行く。感情も思い出も、整理しないための旅だった。

あれからもうすぐ1年。まだ東京で暮らしている。学生時代と生活環境はあまり変わらない。皆が同窓から去った後の校舎で、私は大学院生になった。

いい思い出ばかりじゃない、苦いままで、私は大学生を終えた。