「愛」を大切に生きたいと考える今の私をつくったのは、15歳で出会った「聖書」だ。純日本人、のっぺり顔の人間に愛などと照れくさいことを語らせてしまうのもまたこの本が持つ力だと思う。
多様性が重視される時代だが、「宗教」という言葉を聞いたときの日本人の反応は海外の人のそれに比べるとまだまだ硬いように思う。私もその一人で、宗教という言葉に対して一種の警戒心のようなものを持っていた。
宗教や聖書に感じていた警戒心。でも、はじめての授業はおもしろくて
聖書と出会ったのは、ミッションスクールに進学した高校1年の春のことだ。
私の生まれ育ったまちは、独自の宗教文化が根強く受け継がれている地域にあった。母が玄関にクリスマスリースを飾っただけで「クリスチャンなの!?」と騒がれるような地域だった。ミッションスクールに進学すると報告した中学校の先生には、「キリスト教の学校に行って、偏った考えにならないか?」と心配されたほどだ。
「よそ者」に敏感な地域で育ったためか、私にも宗教、特に外国の宗教であるキリスト教に対して身構えてしまうDNAは受け継がれていたようだ。高校に入学した初日、自分のロッカーに聖書が入っていた時にギョッとしたことを覚えている。
私の通っていた高校は修道会が運営する学校で、週に1回シスターが担当する宗教の授業があった。
はじめての宗教の授業は緊張した。ほぼ予備知識のないキリスト教について、人生ではじめて出会うシスターという職種の人から学ぶことはまさに未知の経験だったからである。
それまで宗教に対して、どこかあやしいもので、そんなものを信じる人の気が知れないと思っていた。だからこそ、宗教や聖書という言葉に対して警戒心があって、心理的にも物理的にも近づかないようにしていたのだと思う。
だが、はじめての宗教の授業で学んだ旧約聖書はとてもおもしろかった。
何かを知ること、学ぶことは、「私」を今より素敵にしてくれる
旧約聖書は、もとはユダヤ教の聖典で、キリスト教だけでなくイスラム教でもその一部が大切な教えとされている。アダムとイブ、カインとアベル、モーゼの十戒など、小説や映画、音楽などの題材として用いられている話も多い。自分が普段から目や耳にしている文化と宗教の授業で習ったことが結びついたことはなぜだか嬉しかった。
また、聖書を読むことで、キリスト教徒が多い欧米や、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教にとって重要なメッカのある中東に住む人々の考え方や物事のとらえ方が以前よりも理解できるようになった気がした。
私は聖書を読んだことで、知ることの大切さを学んだ。
知らないことは怖いことだというが、知ることも怖いことだと思う。
何かを一つ知ることで、自分には知らないことがたくさんあるのだとわかる。何かを一つ知ることで、世の中の嫌な部分も見えてくる。何も知らないほうが平和なのかもしれない。
しかし、それでも何かを知ること、学ぶことは私という人間を今より素敵にしてくれるとも思う。聖書はそれを教えてくれた。
「知ること」のすばらしさ。そして「愛すること」を教えてくれた聖書
知らない相手は怖い。だから聖書やキリスト教も怖かった。どんな距離感でどのように接していいのかわからなかったからだ。聖書を読んでからは、海外の人々がすこし身近になったように感じる。彼らが信じるものや、愛を大切にする文化を、聖書を読む前よりも愛おしい気持ちでみることができるようになった。
「知ることは愛すること」だと教えてくれた人がいる。
ならば、私にとって「知ること」のすばらしさを教えてくれた聖書は、「愛すること」を教えてくれた存在でもある。知ることは人をより深く、豊かにする。それは、知ることでその人の出会いの幅が広がり、その人が愛をもって接する人が増えるからだと思う。
たくさんの人、こと、ものを知ることで、来るものを拒まず受け入れる深さを持った大人になることが今の私の目標だ。