作為を意識させない、わきまえたメイクのしたたかさがおそろしかった
世の中がコロナに翻弄され始めてから、私はメイクをしなくなった。いちいち、マスクが汚れるのが煩わしくて。いっそのこと、何にもしない方が手間もかからず楽だと思ったから、やめた。
思い返せば、女性誌で何度か「withコロナ時代のマスクメイク」とかいう特集を見かけたけど、私はそんなところで努力する気にはなれなかった。
もともと、ファンデーションの上にチークを重ねて、リップを塗るくらいの手抜きメイクだったから、下半分が隠れるのをいいことに、余計にズボラになった。
いや、手抜きメイクと言えるほど、“正しい”メイクをできている自覚も自信も、別になかったけど。
しゃれた一部の女子を除いて、高校までは、みんなだいたいすっぴんなのに、大学生になると途端に垢ぬけようとしてくる。世に言う「大学デビュー」と時を同じくして、嫌々メイクデビューをしたから、いかにも初々しい初心者メイクしか知らない。
こなれて見える。大学でも、社会人になってからも、そういうメイクができる人が私にとっては脅威だった。あくまでナチュラルに、それでいてちゃんとトレンドもおさえている。言うなれば、わきまえたメイクに長けた女たち。
極めて作為的なものなのに、表面上は決して意識させない。そういう、クセのない仕上がりも、実は徹底的に演出されたものだと思うと、そのしたたかさが余計におそろしかった。
女は日常から武装することを余儀なくされている
そんな神業、私には到底できない。女じゃなければ、こんな惨めな思いをすることもなかったのに。そう思ってきた自分にとって、コロナ禍は好機だった。
下手なメイクをして、イタい子に見えるくらいなら、はじめから、取り繕わなければいい。
気になりだすとキリがないから、垢ぬけることには無頓着なんですって、そう自己暗示をかけて、マスク生活とテレワークをいいことに、きっぱりとメイクを放棄した。
はじめはメイクだけだったが、コロナ禍が長引くにつれて、ケアというケアがおろそかになった。たとえば、美容脱毛。
バカ高いお金を払って定期的に通うわりには、毛の生え具合もすぐには変わらないし、部分的に始めたはずが、気付けばセールスの罠にはまって、無駄な契約をさせられてたりする。
どうせステイホームなんだから露出する機会も滅多にないし、2年前から付き合っているパートナーは、脇毛も乳毛も気にしてないから、やるだけ損だと思った。
「なぜ女は、毛が生えてちゃいけないの?」
勝手に独りごちる私の横で、
「たしかに」
と、パートナー。物分かりのいい人で、実に助かる。
極端かもしれないが、私がティッシュを鼻に突っ込んでいようと、彼は特段気にしない。
鼻炎に加えて、冬場は寒さで鼻水がとまらないから、もういつ出てきてもいいように、時短テクを取り入れてみた。でも、うるさいのは実家の母だった。
「そんなんじゃ、お里が知れるじゃないの~」だの「お嫁に行けないわ~」だのと、小うるさい。
なぜ女は、だらしないって注意されるの?お父さんにはそこまで言わないのに。
清潔感という言葉をタテマエにして、女は日常から武装することを余儀なくされている。そして、世間や異性の求めに応じて、事あるごとに消費される対象と化している。
好きでやっているならまだしも、女全般に一律に求めてくるのは違うのではないか。
インスタライブで表示された自分のすっぴん。さすがにうろたえた。
そうやって高をくくってはいるが、やはり日常は容赦ない。
この間のインスタライブは、相当居心地が悪かった。リア充ツールのインスタは極力、使用を避けてきたが、関わりのあるプロジェクトの広報担当で、参加せざるを得なくなってしまった。
夕食を食べたあと、急いで入浴をすませて参加をリクエストすると、自分の顔面がクローズアップされて、思わずどんびいた。ZOOMに慣れているからか、バーチャル背景なしのスマホ画面に、すっぴん丸出し野郎がいるのを見ると、さすがにうろたえた。
だてメガネが、かろうじてカバーしてくれていると思ったが、私の顔を見た相手が開口一番、「もしかしてお風呂あがり?(笑)」と訪ねてくるので、心拍数があがる。
その顔は、ばっちりメイクが施されていて、こちらはますます赤面してしまう。
「あーそうだよ」。なんでもないふうを装うけれど、相当イタい。
画面構成は、メイク顔2対すっぴん顔1。惜しくも敗北。
このライブを見ている方々は、私の顔を見てどう思っているのだろう……。
終始、そんな羞恥に苛まれながら、憂鬱な1時間をなんとか乗り切った。
私だって、あまりにみすぼらしい容姿でいるのは気が引ける。他者の要請ではなく、自らの気分をあげるためにおめかしすることを悪いとは思わない。
でも、今の世の中は女に求めるものが多すぎる。一から十まで従ってなどいられない。どう考えても理不尽な初期設定を強いられていると思う。
だから私は、煩わしいとか惨めだとか、自分で自分に理由をつけて、はじめから戦線離脱している。
これは単なる棄権ではなく、ささやかな抵抗なのだ。私はそう、思っている。