助けてと言えない私に気が付いて、なんとかしてくれようとする人
誰かを切実に頼った時。応募要項の中の犬山紙子さんのメッセージを熟読する。
頼れる力は生きるために大切。誰かに頼った時、それは成長の時。
わたしは人に頼ることが苦手だと思う。頼る前にダメになってしまう。誰かが横から手出ししてくれたり看病してくれるのを待っているばかり。わたしも大切な力を身につけて成長しなくてはいけないのだと思う。
ただ、自分から助けてと言えなくても、頼らせていただくことはある。できる。
横から手出ししてくれたり看病してくれる相手を、わたしは切実に頼りにしている。
なんだかわからないものを抱え込んで体調を崩すことが、わたしにはよくある。
風邪をひく、とかのレベルではなくて、何日も食事を摂らないで心臓が痛くなる、とか。
もちろん体調の悪さはレベルでなくて悪い本人はとても辛いのはわかっているんだけれども、レベル、とか言って比べてしまうほどに、わたしは慢性に体調が悪いのかもしれない。
そんな時に気が付いてくれてなんとかしてくれようとする人。
同時に、そんな時のわたしをなんとかできる人。年中切実に頼りっぱなしのような気がしてきた。
人を頼るとは面倒をかけること、信頼関係を築けた相手でないと難しい
その人は同居をしていない恋人。
大体の人はまず、嬉しいこと悲しいことをぶつける相手は恋人なんじゃないかと思うけれど、違うのだろうか。
一緒に暮らしていなくても大概のことはリアルタイムで伝わる。
伝える方に伝える気がある時に限っては。
わたしは、恋人だから、と当たり前に頼りにしてしまうのは避けたいなと思っている。
わたしにとって人を頼るとは面倒をかけることで、それは嫌がられたり嫌われたりする可能性としっかりこびりついている。
かなりの信頼関係の築き上げられた相手でないとハードルが高い、というよりもできない。
わたしが彼を信頼して安心して頼っているのはそういう意味で、すごいなあと思うから。
わたしが初めてきちんと体調を悪くし、なんとかしてもらわないといけない段階になった時に、私たちにはまだそれだけの時間の積み重ねは、なかった。
砂時計の下の部分に積もる土台がほぼないに等しかったのに、上からおもーくのしかかるようなことをしてしまった。
彼に出会えたことは奇跡のようで、本気で捨てられると思っていた
それでもわたし達はダメにならなかったし、崩れてしまわなかった。
わたしはそんな相手に出会えたことを奇跡のように思っているし、そんな広さやパワーを秘めている彼をほんとうにほんとうにすごいと思う。
本気で捨てられると思っていた。
今でもたまに心配になる。その時のことや直近で助けてもらったことをふっと思い出しては捨てられるんじゃないか、言わないだけでものすごく負担に思われているんじゃないか、ほんとうに今でもこの人はわたしの彼なのか、と。夢のように思ってしまう。本人には怒られるかもしれないけれど。
ものすごく勝手な印象として、若い世代ほど自我が強くて発言がきつい気がする。グローバル化やインターネット社会にもきっと関係している。
わたし含めて令和の「若者」は、きちんと自己主張ができないと存在にすら気が付いてもらえない。
クラスメートにも、就活御社にも、異性にも。それから社会にも。
そういう中で実際、きちんと発言できる人よりもうちにこもりがちの人の方が多い気がする。どんどん増えている気がする。
少数派の声の大きい人の力がちょっと増えると、言えない人はだいぶ増える。失くす声や自信はだいぶ減る。そんな気がする。
私をなんとかできる彼に、頼らせてと声をあげられるようになりたい
当のわたしも例の彼に、もっとちゃんとものを言った方がいいと言われる。
ぼくはきみに気が付いてあげられるけど他の人にも気が付いてもらうために。そんなニュアンスか気がする。そんなに物静かな自覚はない。
わたしは社会に向かって大きな声で意見できるようにはなれなくてもいいと思っている。けれど、そう言ってくれる彼にもう少し、頼らせてと、声をあげられるようになりたい。
生きるために。
成長するために。