すれ違う人々が話すのが、日本語ではないことに安堵することがある

私は高校生活と大学に入学するまでの間で、ずいぶんと多くの国に旅に出た。大半はひとりだった。
空港に流れる独特の空気を知っている。そこは忙しなく人が行き交うのと同じように、様々な思いの入り交じった空気が漂っている。アナウンスの音ひとつですら心をときめかせる不思議な力がある。
離着陸を繰り返す飛行機を見ながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。あの時間の贅沢さを知っている。街中ですら高いところで悠然と空とひとつになるあの飛ぶ形を見ると、遠くに消えていくまでずっと目で追ってしまう。
ひとたび飛行機から降りた先、吸い込む空気がどんなにわくわくする香りかを知っている。まだ空港の外にも出ていないのに、なんだかその国の「香り」を感じて仕方ないあの瞬間。

外国に行くこと、すなわち言語も文化も違う生活圏に足を踏み入れるということ。
すれ違う人々の話す言語が日本語ではないことに安堵することがある。この国の、今この瞬間では誰も私を知らないのだ。そう思うと、ふっと肩の力が抜けて呼吸がしやすくなる。

この国の生きるスピードのようなものが、合っていないように思う

勿論日本にいたって周りの人は誰も私を知らないだろう。しかし、何故だか私がうまく人々の流れに溶け込めていると感じるのは、いつだって外国でひとりになった時だった。

時々とても苦しかった。自分がこの同じ言語を話す人々の黒にずぶずぶと埋もれていく気がして。何も私には特別なことがないのだと、街中の喧騒から聞こえてきていたように思えて。
私には自分の生まれた国に設定された生きるスピードのようなものが、合っていないように思うのだ。
外国にいる時、私はやっと自分の速度で生きられる。そんな気持ちになれたし、そう思える場所を見つけられたことが何よりも嬉しかった。
私にとってひとりの旅は、同じ言葉の聞こえる場所で過ごすことよりもひとりを感じなかった。私の速度で私と一緒に歩いてくれる自分の存在を、ものすごく近くに感じていたからかもしれない。

大きなクジラだって、生きるのに息継ぎがいるのだから

どの旅も大体1、2週間ほどの日程だったが、別に特別なことはしなくてよかった。ただずっとカフェで注文したコーヒーをゆっくりと含んで道行く人を眺めたり、屋上で夜風に当たったり、音楽を聴きながら布団で目を閉じて旅での出来事を思い出してみたり。
どこか有名な観光地に行く訳でも、美味しいご飯を求めて有名なレストランに行く訳でもないが、私にとってはこれがこの上なく幸せな旅の時間だった。

考えてみれば私はきっと、旅に息継ぎのしかたを教えてもらっていたのだと思う。
こうしてたまに外国でひとり、自分の速度を取り戻すこと。息継ぎをしに海面に上がってくるクジラのような気持ちになる。あの大きなクジラだって生きるのに息継ぎがいるのだから、小さな私には生きるための息継ぎがもっと必要に決まっている。

生き急ぐ国から離れて、自分とゆっくり深呼吸の仕方を確認し合うこと。

これは私が生きるため、自分の生まれた国に暗い感情を持たないため、また頑張ろうと思うため、どれにとっても必要なことだった。
酸素が血管を通ってゆっくりと身体中に染み渡っていくように、吸い込んだ旅でのうれしさや新しい発見が私の中を駆け巡って今の私がいる。旅での小さな幸せや出来事は全て私の血液に溶け込み私の一部になる。そしてこうして旅で呼吸をして酸素をたっぷりと取り込んだ私はまた、ゆっくりと自分の居場所である海の深くに帰る。

呼吸を終えたクジラがゆっくりと、でもどこか満足げに深い青の海に帰っていくように。