2021年、私は、愛をくれた人を失った。

宇多田ヒカルの『One Last Kiss』が好きすぎる。好きな曲を見つけると飽きるまで聴いてしまう。20年生きても、ほどほどができない。人もお酒も。できないというかたぶん待てができない「飽きるまで」と「ないものねだり」で生きてる。あとは「興味があればなんでも触れてみる」とか。

卒業前に思い出がテーマの作品課題があって、せっかくだから学生生活を振り返ってみようかなと思った。ビールまだあったかな。

コロナ到来を挟んでの2年間で、私は違う生き方をして駆け抜けた

コロナ到来を挟んでの2年間で、私は違う生き方をした。多いと半期に20コマを取って、友達とふざけながら授業を受けたりサボってたのが2年生まで。単位は合計したら4年間で180くらい取ったみたい。単位の足りない友人に2単位5000円くらいで売ってあげたいくらい。安すぎる?
もう3年生かぁ、って時にコロナが来た。

それでもステイホームしてたのは4月の2週間くらいで、その後は週4バイトと週3対面授業。授業後にそのまま友達とご飯を食べる習慣になったし、馬鹿みたいに深夜ずっと通話を繋いでいた。
モラトリアムって感じで幸せだった。これは何にも代えられない経験だろうなあ。コロナがあって人間関係がもっと濃くなったというか、心に触れて触れられる的な。楽しみ方は考えようでいくらでもあるし、ストレスはあんまりなかった。やりたいことをやろうって考えが強くなって、色んなことに手を出しつつ就活無双をしながら4年生になった。多重人格を駆使して内定を沢山取ろうゲームだった。
でも正直なところ殆ど覚えていない。オリンピックのバレー、あんなに騒いで見てたのも、そばかすの姫を観たのもだいぶ昔に感じる。本当に駆け抜けていた。

大好きだった人を喪失した年、愛してくれる人たちを愛そうと思った

そんな私は2021年の秋、そばにいて欲しかった人、大嫌いで大好きだった人を喪失した。自分ばかりが愛されたくて、私は愛することができなかった。
全て割り切ろうとしても、鬱状態に陥り、考え続けては友達や大人たちに泣いて相談していた。辛くて授業に出れずに、空き教室で友達の胸で泣いたことも、やっと今笑って話せる。悲しい曲を聴きすぎる悪い癖も発動し、流石に優里のドライフラワーで泣いた時はもう自分の感受性に笑うしかなかった。

それでも時間と共に、辛さに縋る行為も減った。割り切れた頃には私を支えてくれた多くの友達への感謝の気持ちで満たされた。人を愛することに臆病な私だけど、愛してくれる人たちを愛そうと思った。この人たちが私と一緒に生きていく存在だと思うと、あったかい気持ちになった。

痛くても進むのは移ろうものに魅了される、自分もそうでありたいから

とは言っても、病み散らかした2週間後に私は東京リベンジャーズを一気読みしてマイキー信者になり、11月になるとデビューしたなにわ男子に危うくリア恋の勢いで沼落ちした。
その後、気づいたらなにわ男子の道枝くんと同じ179センチの年下彼氏ができた。年下の不意のきゅん行動に翻弄される。あとヨガを始めたり、自分のやりたいことに対して、止まらずに押し進めていった。

この3ヶ月くらいの話を友達にすると、「百は強いよ」と言われる。ううん、強くはないよ、心がついてきてるかわからないから。それでも前に進まないと私は生きてる心地がしない。その自覚はある。
小さい頃も流れるプールすら必死に逆走してた。痛くても進むのは、移ろいゆくものに魅了されるし、自分もそうでありたいから。流れ星の尾を見ているかのような掴めない人でありたい。

思い返してみると私は、人に愛される自覚を持つ大切さと、向上心を持って進み続ける自分の信念に気づいた。そして改めて私は人間が好きなんだと思った。人を好きになるだけで、人から愛されるだけで私は幸せな人生だったと思う。
でもこれから私は自分を支えてくれる人、愛してくれる人に愛を返せるような人間になりたい。
愛することを恐れないで、2022年私は、誰かを愛したい。