気づいたらずっと、私は自分が人と違う事を本当に認められずにいる。だから本心を喋りたくない。喋れば喋るほどこの感覚が深まるからだ。

「私かみんなか」という二択で世界は出来ていないことを知ってから時間は経った。みんなという存在が実はないことを私はもう知っているはずなのに、自分一人はみ出しているところばかり目につく。無視できない。
私の2022年の目標は、大げさに言えば、この感覚に打ち勝つことである。

双子の姉と、初めて別の環境に。人生を振り返って気づいたこととは

ところで私はやや特殊な姉妹構成を持つ。私は双子である。
これについて幼いころから特に深く考えたことはなかった。隣に同じ学年の姉妹がいることは私にとって当たり前の家庭環境だったからだ。しかし、この深く考えてこなかったところに私が今抱える問題の根っこがあった。

私が最初に世界からはみ出た自分を許せないと思ったのは、高校二年の秋だった。
姉とは中学も高校も違ったが、学校が違うことは二人の意識にそう大きな違いは生まなかった。例えるなら違う世界線にいる為、同じ場所にいても昼間すれ違わない二人の物語を想像して欲しい。
環境がほとんど一緒だった。同じ時間に起きて同じ時間に家を出て授業を受け、放課後は同じスポーツの部活に励んだ。

しかし高校二年生の時、今にして思えば初めて姉と違う行動を取った。私だけ怪我により部活を辞めたのである。
それまで部活三昧だった私は、突如現れた自由時間に戸惑った。一人になってしまった放課後、自分のこれまでの人生を振り返り様々な事を考えた。こうしてエッセイを書いている原点にもなった、私だけの大事な経験である。

この経験を通して、今まで姉に言えなかった事など一つもなかった私は、話しても彼女に理解できない部分が自分にある事をこの時初めて認識することになった。
簡単に言えば私の方が遥かに神経質で、良くも悪くもこの世を随分と詩的に捉えていたのである。はっきりとした温度差があった。
それはきっと世界が揺らぎ、自分という存在を否定したくなるほど衝撃的だったのだろう。今となっては人から長所だと言ってもらえるかもしれない部分も、私にしてみれば劣っていて、世界からはみ出した醜さの塊でしかなかった。
この時の私にとって、世界とは姉のことだったのかもしれない。

いつも傍には姉がいた。人と向き合わずに生きてきたことに気付き…

大学生になると相違はさらに大きくなった。大学こそ専攻も進路も異なるので生活が全く合わなくなり、話も嚙み合わなくなった。
「どういうこと?」と聞き返す事が増え、それはとてもこの双子を苛立たせた。何故ならこれまでお互いにお互いを理解することに必死になったことは一度もなかったからだ。
とても自然に二人の思考回路は共通し、一つの違和感もなく共有され、接続されていた物だったから。

双子という存在がずっと傍にあったからこそ、私は人に理解を求める事なく生きてきた。
でもそれが絶対的で完全体な自分のコピーではない事を知った時、外にそれ以上の存在を見込んで干渉することができていない。
私が大学生になってから直面してきた問題は、自分のつくる人間関係への無関心ゆえの本心の不在が引き起こすものだった。

私の言動は酷く適当で一時的だった。外の世界に溶け込むための表面的な言葉遣いはできるようになったが、誰とも長続きしなかった。人と向き合わずにここまできてしまったせいで根本的な人間関係の経験値が周りより非常に低かったのだ。
逃げて、逃げて、逃げてここまできてしまっていた。

相手と向き合うには相手を認める大きなちからが必要だ。そのちからが私にはなかった。それなしでも生まれつき私には私の最大の理解者がいたからだ。
しかし、この世にはもう一人の私がいるという幻想が崩れた今、耐え難い孤独に直面している。

自分の本心を曝け出し、他人と深い関係になることを恐れないように

昨年の暮れ、ある友人が私に勇気を出してこのように忠告してくれた。
「人間関係は人形遊びじゃない」
最初はピンとこなかったが、徐々に意味が分かってきた時、初めて自分がとても情けなくなった。

私は自分が思っている事を言うと、ほとんどの人は離れていくと思い込んでいた。それは冒頭に書いたように、他人と自分の違いが明白になる行為であり、私は落胆するし相手も私を理解できないと良い思いを抱かないと考えていたからだ。

しかし本当は逆で、本心を話さないことが私から人を遠ざけていた。表向きうまくいくように帳尻を合わせてつくり続ける私の世界は、友人には子供が家の床で広げてつくる人形遊びのように見えたのだろう。
自分は考える方だと思っていたが、人に対する自分の感情は全く掘り下げていないことに気づいた。

人は私が思うほど違いに敏感じゃない。私がここまで敏感なのは、裏を返せば私自身が人の違いを受け入れる懐の大きさ、認めるちからがないことを意味している。
これを養わなければならない時が来た。

私の2022年の目標は、少なくとも自分の周りにいてくれる人ときちんと向き合うことだ。それはつまりその場しのぎの綺麗な言葉を並べるのではなく、少しずつでも醜い自分の本心を曝け出し、他人と深い関係になることを恐れないことである。

まずは、残念ながら自分の対人能力が小学生で止まっていることを認めるために、この文章を書いた。そしてこれは、私が初めて世界に自分の違いを曝け出す一歩でもあり、かつて劣っていると感じた部分を自分の強みだと思えるようになるための一歩でもある。
もしかしたら世の中の多くの人は、私の考え方は酷く幼稚で馬鹿げていると笑うかもしれない。私が小さいころに感じていた極上の一体感は流石に味わえないことを、もう既に多くの人は身をもって知っているのだろうから。
随分と遅れてしまったが、私のスタートはここからだ。
今年で二十三歳。まだ間に合うだろうか。