「Be a lady, they said. 」
読みながら、そして読み終わって、めちゃくちゃムカついた。
「うっさいバカ、黙れ」
びっくりするほど汚い言葉が浮かび、むしゃくしゃして髪をかき回した。
あの詩に書かれている姿が「女の子」なら、私は「女の子」じゃない。
まあいい。私は私だ。
両親が「女の子らしく」と言ってきたことはなかった
思えば、父も母も「女の子らしくしなさい」と言ってきたことは一度もなかった。
私は、おしとやかでしゃんとしていたことは一度もない。かといって「男の子らしかった」わけでもない。私は私らしく生きていた。
「高校の制服、スラックスがいいかもなあ」
と言えば、
「すだれは脚が長いから似合うんじゃない?」
と返された。結局、スラックスよりスカートの方が私好みだったので、スカートを選んだ。
「私、結婚しないかもしれないよ」
と言えば、
「ああそう? いいんじゃない?」
むしろなぜわざわざそれを言うのか?と首を傾げられた。
「孫がほしいとか思わないわけ?」
「いや、すだれの好きなようにしたらと思うけど」
「あ、そう」
そう、両親は過干渉な割に、私が最終的に選んだものに対しては、好きにさせてくれた。
北陸に住む祖母に「すだれはほぉんま、女の子らしなったわぁ。もう立派な女性らしなったわぁ」と言われたとき、得も言えぬ不快感のあまり、その場で「私は私だけど」と噛みついた。孫としては不適切な行動である。
でも、私は私なのだ。
私は、私が好きだからスカートを穿くだけで、「女の子らしく」するために穿いているのではない。
私は、私が好きだから本を読むのであって、「女の子はおしとやかなものだから」本を読むのではない。
サークル長が紫色の登山靴を勧めた理由は、「女の子らしいから」
数ヶ月前、私はひょんなことから社会人登山サークルに入った。大学の先輩に誘われ、断れなかったからである。
「すだれさん、靴持ってないよね。俺車出すからさ、見に行こうよ」
と近所のアウトドア用品店に連れて行かれた。私と、私の先輩と、サークル長の男の人の三人だった。
足のサイズが大きめなこともあり、レディースだとサイズがギリギリ、しかしメンズだと少し大き過ぎる、ということで私は悩んでいた。
そしてついに良いサイズの靴を見つけたのだが、色で悩んでいた。一つは真っ黒、そしてもう一つは紫。黒が可愛いが、紫は「いかにも登山!」という感じで悪くない。
「先輩、どっちが好きですか?」
「うーん、俺は黒かなあ」
「あー、やっぱり黒ですか?」
「でも山では目立つ方がカッコいいしなぁ、紫もいいね」
先輩は良い人である。ふむふむ、なるほど、と私は黒と紫を左右に持ち、どうしようかなあとウンウン唸っていた。その時の私は、紫に若干傾いていた。
「紫の方が女の子らしいよ」
そう口を挟んできたのが、サークル長の男性だった。
「あ……、あー」
そうですか……と紫の靴を戻そうとした。そういう風に言われるのが嫌だからだ。男性は、
「あーでもさ、だったらこっちの靴の方が女の子っぽくて可愛くない?」
と、私の足に嵌まらない靴を指差した。
「それ、私の足は入りませんでした」
「えー、そうなの? 残念だったね」
いかにも気の毒そうに眉を下げられ、
「いや、その靴が良いなんて思っていないですけど」
と返したが、「うんうん、分かるよ。悔しいよね」と同情の目で見られ、もはや言い返す気力すら失くした。
結局靴は、一番山登りらしい、紫のものにした。
「女」という枠組みに入れないで。私の評価は私がする
どうして靴一足ごときで「女の子らしい」と言われなくてはいけないのか。そこは基準ではないのだ。私は私が一番似合う、私が一番きれいに見えるものが欲しいだけだったのに。
そんな思いのまま臨んだ山登りは、やっぱり楽しくなかった。
会社で、「自分の評価は他人がする」と言われたことがある。仕事においては、まあそうだろうと思っている。
しかし仕事以外では、「私の評価は私がする」と、私は思っている。
「女の子なんだから軽自動車の方が可愛いよ?」
知らねえよ。理屈が分らん。出直せ。
「女子は早く結婚したほうが幸せだよ?」
はあ。で? 幸せって何?
「もっと女子らしい行動したほうがいいよ?」
それは、お前が考える「女」だろ。
一生妄想でもしとけ。
私の心の中のマシンガンは、それらを発した人間に対して、常に弾を放っている。
みんなちがってみんないい。それだけでいいじゃないか。
なんで「女」という枠組みに、私達を入れようとするのか。
そしてきっとこの文章も、「女の強がり」と思われるのだろうか。
うるさいな。
私は私だ。私は私の考えにしか従わない。
これまでも、これからも。