私が通った某大学の文学部は、わきまえたら卒業できない
わきまえたら卒業できない。私が通った某大学の文学部は、一言で言えばそのような表現が似合っていた。すなわち、かような問題発言が意図していると思われる「都合のいい男」「都合のいい女」では、意欲がないと判定されてしまうのである。
わきまえた振る舞いとやらに徹して1セメスターを潰そうものなら、単位を失うばかりではない。本人の学力レベルまで低く見積もられ、ゼミ選びや卒論の過程まで狂いかねない。完全にわきまえたら負けの世界だった。
そもそもそこは人材のるつぼだ。他大学では学部単位で分けられる文化学や歴史学までも、ここでは一つの学部なのだ。
方言に詳しい者もいれば、副専攻で画家のエル・グレコのレポートを楽々と書き上げる哲学生もいた。美学の大講義に行けば、ボーターハットに麻のセットアップを着こなす年齢不詳の先輩が、アンティークのスーツケースを片手に最前列に座っている。社会人の聴講生も多かったから、彼らの率直な意見は重宝された。
わきまえるという言葉では到底縛り付けられない個性がひしめいていた。アカハラやレインボー週間の啓発も盛んだった。
ゲームNGの家庭で育ち、娯楽は専ら本。読書は裏切らない
うつ病、発達障害、不登校、ニート、高校中退、一浪、休学、留年。わきまえた可愛らしい女からはおよそ遠い言葉が、私の経歴には並ぶ。ゲームNGの家庭で育ったため、娯楽は専ら本である。
紫式部の伝記漫画は、表紙の美しい平安女性に惹かれて手に取った。史実の式部は平凡な容姿で社交的なスキルは低かったとされている。それでも女社会の後宮で、ずば抜けた教養を武器に藤原道長・彰子親子の信頼を勝ち取った。読書は裏切らないということは、彼女の人生が証明してくれた。
百人一首からギリシア神話まで、興が乗れば何でも読む。中学生になると、市立図書館へ一人で行かせてもらえるようになった。
合唱部に入ったこともあり、詩歌のコーナーにも足を運んだ。お気に入りは、立原道造の詩集『曉と夕の詩』だ。初版を忠実に再現した楽譜風の10篇には、悲痛なまでに甘美な恋愛感情と、喪失感が音楽として漂っている。冷やかしや見栄の張り合いばかりしている現実の中学生の色恋沙汰とは、対極の世界が広がっていた。肉体表現と恋愛を無理に両立させる必要はないのだと知った。
固定観念に囚われて、予定調和のみを追う時代は終わりへ近づいている
立原から中也へ、中也からフランス詩へ、フランス詩から芸術全般へと芋づる式に知識を蓄えていった。結果、少なくとも学問に関しては「わきまえない女」の出来上がりだ。加えて病気で大学を留年してからは、周りは年の離れた子ばかりになった。
「先輩だけど同級生」以外の評価はされないので、「わきまえた女」を求められることは一切ない。むしろ、彼らの向学心を引き出せるように、積極的な発言が求められた。フランス文化全般に関しての講義を担当する教授には、「困った時の信さん頼み」と言われ、最後の講義には同席していた子どもたち(といっても大学4年生なので世間的には十分大人なのだが)に「信さんのおかげで充実した講義になりました」と感謝されてしまった。
むしろ感謝するのはこちらである。わきまえた振る舞いに徹している者は、単位はあたえないことを徹底した教授陣。それに食らいついて、見事に学位を手にした同級生たち。ステレオタイプな男と女を求められない、柔軟な世界に恵まれた。
学問も世紀も前進し、知の遺産は蓄積されていく。わきまえた男と女でい続けるには、到底速すぎるスピードで。固定観念に囚われて、予定調和のみを追う男たちの時代は確実に終わりへ近づいていく。
戦争、災害、事件、事故。わきまえてばかりいては、いずれ自身に降りかかるかもしれない惨事に打ち勝つことはできない。そんな薄氷の日常を、わきまえずに今日も生きている。