子どもは毎日のように思わぬことをする。絵本を噛みちぎり、親の腹に飛び込む遊びを編み出し、コップに入った麦茶を机にぶちまける。
絵本さん痛い痛いだよ、飛び込むとあなたも私も怪我しちゃうよ、お茶がもったいないから飲んでね。こうやって落ち着いて対処できれば良いが、積み重なると苛立ち、だんだん語気が強くなってしまう。親として未熟だな、と常々反省している。

幼い私が「このままではいけない」と訴えてくるから、たてた目標

2022年、泰然と息子に向き合い、親として成長する。これが私の目標。
というのも、私が育てられたときの記憶が、このままではいけないと強く訴えるからだ。

幼い頃から、私が母の思うようにしなかったり、何かを間違えたりすると、ほとんど怒鳴るように叱責された。それだけで終わらず、1週間は毎日、同じ内容で説教される。

例えば、アイスの蓋が開かなかった。思いっきりひっぱっても、幼稚園児の手の力では開かない。焦れた私は、蓋に噛みつき無理やり開けた。それを見た母が怒った。
そりゃあ、お行儀が悪いから叱られるのは分かる。でも、くまがカップアイスに噛みつく様子に、いけないことです、と添えられた母お手製のイラストを毎日見せて懇々とお説教するのはやりすぎではないだろうか。

最初にきつく叱られるから、そこでやってはいけないことだと理解できている。でも、もう分かったから、と言うと母があからさまに不機嫌になるから黙って聞いていた。

良い子の範疇から超えると、ヒステリックな叱責と繰り返される説教が待っていた。ついでに小学校まで、お勉強を間違えても同じだった。
間違えたことをしそうになったときの、あのピリつく空気。恐怖の記憶でしかない。こうして、私は親を窺う子どもになった。

いつしか私は、母の機嫌を窺う子どもに。行動基準は全て母で…

母の機嫌を損ねないように、真面目に良い子にできるよう窺う子ども。行動基準は母の意に沿うかどうか。おもちゃ売り場を横目で見て、欲しいと駄々をこねるのをぐっと我慢して、せめて少し眺めたかったけど、繋がれた手を痛いくらいに引かれて、黙ったままその場を離れた。

きらきらしている、おもちゃの宝石箱。「ちょっとだけ見て良い?」そう尋ねたとしても、買わないよ、と怖い顔で言われて終わるのだから。物を無闇に欲しがるのは、悪い子なので。
怖い顔、怒り、大きな声。全部苦手だ。これらが好きな人はそうそういないと思うけど。私の場合、それが自分に向けられると、途端に動けなくなって涙が出て思考が止まる。昇華できていない幼い頃の感情が出てしまう。怒らせた、私が悪いんだ、またずっと叱られる。

昔の母そっくりの怒鳴り声。あんなに嫌だった母のようになっていた私

さて、恥を忍んで明かすと、もうすぐ2歳になる息子に怒鳴ってしまったことがある。歯磨きの練習で、歯ブラシをもたせたところ、彼は咥えたまま歩こうとした。三度目までは穏やかに、喉を突いたら危ないから座ろうね、と促せた。

四度目、すっくと立ち上がった彼に苛立ちが決壊した。
「座ってって言ってるでしょ!」
昔の母そっくりの怒鳴り声だった。息子は泣き出した。私はあんなに嫌だった母のようになっていた。深い後悔に、ごめんね怖かったねと、ただただ謝ることしかできなかった。

叱ると怒るは違う。子育てで必要なのは、論理的に説明して、行動を導く叱り方だ。怒鳴り、恐怖の力で子どもを思うように動かそうとするなんて、全くの真逆。
息子を健全に育てたい。育てなければならない。そしてきっと、親になった責務を果たしたとき、心に残る幼い私が成仏するのだ。