結婚や家庭において、「女性はこうあるべき」「男性はこうあるべき」という言葉は何度も耳にするし、それに抗う声も何度も耳にする。最近は古来の(昭和の?)理想の女性像から女性を解放しようとするのがトレンドのようだが、そもそもどうして、「女性はこうあるべき」「男性はこうあるべき」という概念が存在するのだろうか。私が考える、その一つの理由は「子育て」だ。
なぜ海外留学に行かせてくれたのか、両親の答えは「娘だから」
きっかけは両親の言葉だった。私は一人で海外留学に行っていて、その帰国後、どうして一人娘の私を海外に送ってくれたのか、と尋ねた時に、返ってきた言葉。
「娘のあなたはこの先、また世界をふらついてもいいし、仕事をバリバリ頑張ってもいいし、家に入ってつつましやかなお嫁さんになってもいい。でも息子たち(私の兄と弟)には、そうは言えない。ふらついて何しているかわからない男にはなってほしくない。ある程度稼ぎのある定職を持って、社会人として真っ当に生きて、いざ何処かの娘さんをいただくことになったときに、家庭を守っていける確かな経済力と覚悟を持っていられるように、私たちは息子たちを育てているつもりだ」
両親の言葉にどこか違和感を抱きつつも、真剣な表情で話す両親に「そうだね」と小さい声で相槌を打つことしかできなかった。
女性が結婚や家庭において求められる姿があるように、男性にもある
両親が昔気質であることを差し置いても、少なからず、女性が結婚や家庭において求められる姿があるように、男性(旦那、父親)にも求められる姿がある。無論それは、社会から押し付けられるものではなく、それぞれの夫婦や家庭で考えるものでなければならないはずで、結婚における女性の姿も男性の姿も自由であるべきなのだろう。とはいえ、だ。実際に娘や息子を育てる親の立場からして、本当に自由な女性・男性に育てていいと思えるだろうか。
私の両親と同じように、息子に対して、「仕送りなしでちゃんと食っていけるように、ゆくゆく家庭を持った時にちゃんと支えられるように、いい仕事に就いて働いてほしい」と思っている人もいるだろう。そのためには、いい大学に行って、いい大学に行くためにはいい塾に行って……と、息子に投資している人もいるだろう。
娘に対しても、「お嫁に行く時に困らないように炊事洗濯とまともな金銭感覚は教えておきたい」と思う人もいるだろうし、一方で「独身でも生きていけるように、高等教育を受けて働きなさい」と育てることもあるだろう。娘にこう言う人もいるかもしれない。「ちゃんと仕事をしている男と結婚しなさい」
結婚を想定せず、既存の理想像から解放された子育てができるだろうか
つまり、自らの子どもを育てて大人として社会に送り出すことが親の責任、すなわち子育てである以上、将来の子どもの結婚を無視した育て方は不可能で、育てる上でどうしても一般的に良いとされる女性像・男性像が介入するのではないだろうか、ということだ。未婚率が上昇してきたと言われるが、2020年においても、7割以上の日本人が生涯で結婚を経験する。そんな社会において、我が子の人生に結婚を想定しない親はそうそういないと思うし、結婚を想定しない育て方はリスキーな気がする。既存の女性・男性像から解放されるべきと考える人たちも、自らの子どもにまで解放された育て方が出来るだろうか。
実際、婚活市場では高収入高学歴の男性を求める女性や、家庭に入ってくれる女性を求める男性が絶えないように、既存の女性・男性像はいまだ根強い。結局のところ、幸せな結婚に必要なのは、既存の女性・男性像から自らが解放されることだけでなく、相手に対しても、既存の理想像や、自分自身が潜在的に相手に求めている女性・男性像から解放してあげることなのだろうと考える。