私は今、休学中の大学生という身分で、最近退学届を提出しました。多くの人が思い描く楽しい大学生の生活とは、全く違う生活を送っています。

もちろん、劣等感がないといえば嘘になります。それでも私はこの決断で良かったと心底思っているのです。

なぜ、そう思えているのか。まずは、私の生い立ちから書かせていただきます。

私は物心ついた頃から、毎日親に怒られてはリビングで泣いていた

幼い頃の私は、とても明るく、笑顔が絶えない子供だったとよく言われます。私自身も思い返せば、よく笑っていたように思います。

しかし物心ついた頃から、毎日親に怒られてはリビングで泣いていました。一番印象に残っているのは、母に「今すぐ死んで!ベランダから5秒以内に飛び降りろ!」と言われ、カウントダウンをされたことです。最終的に、飛び降りはしなかったし、数時間後に母が私を抱きしめながら「ごめんね……」と泣いていました。

今思えば、私も聞き分けが良かった方ではなく、小学校では入学早々、中学校でもいじめにあうなど、育てるのに苦労していたのかも知れません。小学生までは時々お腹を蹴られることや、よく物に当たる親だったので漢字ドリルに穴が空いたこともありました。

父も例外ではありません。私が家で元気がないと、「なんやねん!!」とキレられることや、気に入らない態度だと「お前と食べて一度もおいしいと思ったことないわ!」と平気で言ってきました。

そんな環境で育ったため、親の前では常に明るく振る舞うように心がけ、自分の本心が言えない人間になりました。それからの人生は、何でも言うことを聞いてきました。

中学時代にカウンセリングを受けたことを話すと、親に怒鳴られた

小学4年生の時に塾に通い、後に中学受験。無事に第一志望に合格し、中高一貫の私立に通い、6年間で卒業。その間、勉強面でのお叱りはもちろん、家に帰ると毎日親の気分次第で怒られました。

そんな日々を送っていれば、段々心が蝕まれていくのは言うまでもありません。5年生の時には、「死にたい」と親のいない場所でよく言うようになりました。

中学時代にはカウンセリングを受けるようになり、最初に受けた際、親に受けたことを話すと怒鳴られました。私の育て方が間違えていると思われる。そんな理由でした。いじめられた時、保健室で昼ご飯を食べていることも、保健室登校をしたいという要望も全て否定されました。

そんな状態ですから、学校の課題にも上手く手を付けられず、6年間遅れながらも少しずつ提出していました。周りの先生や友達に助けられながら、なんとか生活していました。

高校生になれば、大学受験です。志望大学は決まっていましたが、学部選びが大変でした。何かと理不尽な理由で怒鳴られ、行きたい学部はことごとく否定されました。

受験勉強で疲れ果て、主張する気力すら持ちあわせていません。だから、自分が気になっている学部から、親が気に入っているもので志望しました。

「大学に進学すれば、自由な時間がたくさんある」。「大学生になったら、たくさん遊べる!」。周りが口をそろえて言っていました。これでやっと解放される……などと思っていました。

親に決められた進路。でも、私は起き上がることもできなくなっていた

ですが、私が進学したのは建築です。課題は多く、片道2時間かけての通学、授業内容の理解が追いつかない、周りの学生との意欲差。親にバイトをやるように言われ、サークルなんて入る余裕はありませんでした。家に帰って「疲れた」とつぶやけば、「学生なんやから、勉強して当たり前」と言われる。

「何のために頑張っているのだろう……」そんなことを思うようになり、後に起き上がれなくなることや、通学中の電車でパニック発作を起こすようになりました。病院に行くと、鬱病や不安障害という診断をされました。そのような病気になっても、「我慢しろ」「甘え」だと言われ続け、病院の薬を飲めば「赤ちゃんが産めなくなる」と散々言われ続けました。

でも、向き合えばわかり合えるのでは……と休学して、家族に自分の気持ちを伝えてきました。そして、私の決断した答えは退学でした。

初めて親に逆らい、自分の気持ちを優先した結果です。申し訳なさや罪悪感はもちろんあります。高卒の親からすれば、期待もたくさんあったと思います。現に、「優しいあんたが、私を裏切った」「あんたなんか大っ嫌い」と言われ続けています。

だけど、どこかほっとしています。期待から抜け出せた、自分で決断した。それは私にすれば、大きな一歩です。優しい私としての歩みは止まってしまったけれど、これからの自分と歩んでいきます。