「期待しない」
この言葉があまり前向きな言葉に感じられないか、気が楽になる言葉に聞こえるか、私は後者だ。
解除され、措置され、解除され、また措置され。
その繰り返しが続く昨今に、期待を持ちすぎると疲れることには薄々気がついていた。
会いたい人に会えるかもしれない、行きたい場所に行けるかもしれない。
制御された中で持つ期待はいつも以上に大きくなる。落胆も同じく。
価値観の違いから距離を置くようになった人間関係がある人だって少なくないはずだ。
またか、そう思う場面に何度も出会ったはずだ。
例えばこれは人間関係だけではない。
仕事。家族。自分自身。
乱暴に言えば全てに当てはまる。

「早寝早起き朝ごはん」という目標を掲げた生活は、コロナでさらに乱れた

私にはここ数年、毎年掲げてきた目標がある。
「早寝早起き朝ごはん」
言葉の通りだ。
早く寝て早く起きて、朝ごはんを食べる余裕を持つ。
未だ満足に果たせたことはない。
現実は明け方に寝て、家を出るギリギリに起きて、朝ごはんを食べることは殆どない。
正直に話せば学生の頃からずっとこんな調子でやってきた。ここ最近だけの話ではないというのが情けないが、今回は棚に上げさせてもらう。
昨年はいわゆるお家時間とやらが増えて、お篭り期間があった。仕事がお休みとなった期間があったのだ。
そう長くはなかった。それなのに、ただでさえ規則正しいとは言えなかった生活は面白い程あっという間に、もっともっと乱れた。

目標は何があっても遂行する、みたいなのが武士のようで格好良い。
本当はそれがいい。
しかし武士にはなれなかった。
目標の途中変更が必要だったのだ。
まだ手が届きそうな小さな物に置き換える必要があった。
また出来なかった、そう思う感覚は、積み上がっていくと想像以上に元気を持っていかれる。

これに気がついたきっかけは昨今の情勢だったかもしれない。
けれど振り返ってみれば、何かにぶつかった時に心が沈んでしまうのは「多方面への期待が大きすぎたから」だと気がついた。
過去の苦い思い出の理由は大体がここへ繋がっていった。

期待が大きかった分だけ苦しくなるなら、基準を下げてみたらどうだろう

きっと今の時代だからというわけではないのだろう。
刺激され続けたことにより目が向いたような感覚だ。
特に騒ぐほどの大きな出来事はなかった。なのになんだか疲れた。別に誰のせいでもない。
理由も分からない、ぼんやりとしたモヤモヤが発散できずに溜まっていく。そんな感覚を多く持った。
決して重苦しいだけの一年だったわけではない。
対処法をうまく見つけられていなかっただけだ。

律することが難しいなら仕方がない、もう全てに開き直ってしまおうというのはこれまた乱暴である。
まぁ出来なくてもいいや。
いつもよりいい具合に事が運べばラッキー。
そう思うことにした。
物は言いようとは良く言ったものだ。

良しとする基準をものすごく引き下げる。
つまりは一旦自分に期待しないことにした。
そうしてみると肯定出来る範囲が広くなった。

肩の力を抜く、考え過ぎない、リラックスする…。
ニュアンスの似たもので他にも色々な言い方が出来るだろう。
その中で先程の言葉は今の自分にかちりとはまった。
武士ではないから、違和感を覚えればこれもすぐに変えるだろう。

あまり明るいものには聞こえないかもしれない。
私としては前向きで、心持ちが変わる大きなこと。
それとするにはらしくないけれど…。
「期待しない」
これが2022年私の宣言だ。