私は、大学を卒業して働いてもう4年目だ。一応自立はしたと家族にも思われているのだが、恥ずかしながらかなりのファザコンだ。何かをやる原動力も、そして何かの「歩みを止める」のも、父が大きく影響する。もうこの世にはいないのに。

例年とは違う家族4人だけで過ごす大晦日もいいなあなんて思っていた

小学校2年生の時の話をしよう。
私はお父さんっ子で、仕事で帰りが遅い父を夜遅くまで待って、「もう寝なさい」とよく怒られていた。
父親は大手企業の研究職で、忙しかったけれど、学校の勉強がわからないと私が嘆くと、学校に文句を言いに行ってくれて(今思うと少し過保護だけれど)、実は頭が良くて、子供相手でも一人の人間としての心を忘れないで接してくれる大人だったように思う。

その年の大晦日は、父親がアップルパイを焼いてくれ、母と妹と一緒に食べた。例年は大阪にある両親の実家まで泊まりに行くことが多いのだが、父の手料理が食べられる家族4人だけの大晦日もいいなあなんて思っていた。母が、少し体調が悪そうなのが少し心配だったけど。
年が明けると、父が、私と妹を地元のお寺に初詣に連れて行ってくれることになった。父は両手を私と妹に片方ずつ差し出して、ジーパンに数百円入れて出発した。私は父と一緒に外出できることに、地元のお寺の初詣を目当てにホクホクしている人々の熱気に、少し浮かれていた。

バスの中で倒れ、そのまま病院で亡くなった父。私の人生観は変わった

しかし、そのお寺の送迎バスの中で父は倒れた。
いきなり過呼吸みたいになって、あとはあっという間。救急車は同じバスに乗っていた参拝者が呼んでくれたけれど、私たちは子供だからということで乗せてもらえなかった。
知らない人が一緒にタクシーに乗ってくれて、病院に駆けつけたけど死に目には会えなかった。死因は心筋梗塞と後から言われた。
「私のせいだ」
誰も言っていないけど思った。

いつ後ろ指さされて誰か通り魔に刺されて死んでも仕方ない。「様子がおかしい」ともっと早く気づいて、周りに助けを求めていたら。救急車に乗せてくれと子供らしく泣いて喚いて乗せてもらえたら。
私の人生観は変わった。明日死ぬかもしれない。死んでも仕方ない。そう思って生きないと後悔する。父に合わせる顔がない。
勉強を頑張った。早寝早起きして快活に人と接することを心がけた。
そしたら先生が「頑張り屋だ」と褒めてくれた。自分の強みはこれだ。母子家庭でも、関係なく、自分の可能性を見つけて引き出してくれる先生たちに感謝した。
いつの頃からか「学校で働いてみたい」という思いは強くなっていた。

「今死ぬかもなんて、言わないと思います」。その言葉が腑に落ちた

4年前の春。ついこのあいだまで学生だった自分が念願の教員になるという夢を叶えた。不安はもちろんあったけれど、もっと大きい期待感でいっぱいだった。
しかし、実際に働き始めてみると生徒と向き合う時間は想像以上になくて、授業づくり、研修、部活動指導、役員業務、事務作業。追い立てられる毎日で、家に帰った記憶もなく、すぐに次の日の朝が来ているという感覚もあった。

だんだん朝の頭痛がひどくなる日が増えて、手が震えて授業が作れなくなって、学校に行けなくなった。メンタルクリニックを勧められて、適応障害の診断をもらった。
そこで、「父親の死をまだ受け止めきれていないようです」と言われた。
ハッとした。ここまで心のSOSを無視して、体のあらゆるところにガタがきていた。「まだ、若いのだから、考え方の癖は治ります。この先長いですから……」とお医者さんが言った。そんなこと考えたことなかった。

だけど、「今死ぬかもしれないなんて、きっとお父さんは言わないと思いますよ」と言われ、その言葉がやけに腑に落ちた。
お父さん、これからも見守っていてね。