「ふつう」とは、この社会に生きる全ての人の平均的な「結果」だと思う。
だから予想できる結果は印象に残らないし、その過程がどんなにぶっ飛んでいたとしても、「案外普通だったね」なんて簡単な一言で終わってしまう。
逆に言えば、過程がどうであれ結果が考えられないものになったら「普通じゃないわ」と人々は驚嘆するだろう。

私たちは嫌と言うほど結果論に支配されていることが、「ふつう」という言葉からわかるのだ。

早寝早起きをする。遅刻しない。皆にとっての当たり前が、できない私

「ふつう」って何だろうと、現代に生きる人なら一度は考えたことがあると思う。かくいう私もそうだ。

小学生のときから早寝早起きが苦手だった。
夜になれば段々と目が冴えて元気になるが、そのせいで朝は死にたいと思うほど眠くなる。
無理に体内時計を直そうと、アロマを焚いたり、よく眠れる音源なんかを買ってみたり、朝は日光を浴びてみたりと一通りのことはやってきた。

でもダメだった。
皆は、朝に起きて遅刻せずに登校すること、仕事することが当たり前と考える。
しかし、私にはそれができない。

「ふつう」の枠組みに幼い頃から入れなかった私は、大人になる頃にはもはや開き直っていた。
「ダラけてるだけ」「気合いが足りない」「このままじゃ普通の生活できないよ」などという言葉は耳にタコができるほど聞いてきたから、もう慣れた。
慣れたというか、そういう声を遮断しないと、自分は生きていてはいけないと思ってしまいそうで怖かったのだ。
時代の流れで、多様性だとか、「ふつう」に囚われない人が憧れの存在になったりしつつあるけど、早寝早起きができない私みたいな人間は、ただの怠け者として認知されてしまう。
周囲から人は離れていくし、信頼も失っていく。
自分のせいだからと飲み込むしかない。
「ふつう」になれるように努力はした。
でも結果、朝に起きれないから、そこだけ切り取られて「だらしない奴」というレッテルを貼られる。

この先どうすれば生きていける?自分はどうしたい?

夜型の私が見つけた天職。感謝されるのは、「ふつう」じゃないから

ならば、夜型人間が受け入れられる場所に生きればいいじゃないと、24時間体制で営業しているアルバイト先で働くことにした。夜から朝にかけて働ける人は少ないため、とても重宝される。
しかも、私は夜になると元気なので、仕事がとても捗る。これは天職だ。そう感じた。

ある日、先輩が「夜だからって怠けないで業務こなしてくれて本当に感謝だよ」と私に言った。
(夜は怠けるものなのか。ああ、そうだよな。皆は朝起きて夜寝るから、生活リズム的に朝から夕方が働ける時間だよな。普通はそうだよな...)
恐らく「ふつう」ではない私は、「ふつう」の人が決めた基準から大きく外れて、今こうして感謝されている。

苦手は苦手のまま乗り越えたわけじゃない。けど、逃げてもいないから

私は「ふつう」でない自分を乗り越えたとは思っていない。
でも、逃げたとも思っていない。
自分が快適な環境で生きたいという「ふつう」の欲望を持っているだけだ。
その欲が上手く転がって、今はとても良い人生だと振り返ることができる。
あのとき、寝ぼけ眼で登校したこと。
1限目の授業は記憶が無いから、午後に友達のノートを必死で写させてもらったこと。
ラジオ体操を始めたけど3日でリタイアしたこと。
胸を張って話せるようなことはないけれど、クスッと笑える話はたくさん持っている。
それは、早寝早起きが苦手という「結果」と、苦手を克服したいという気持ちからなる「過程」が合わさっているからだと思う。

苦手をそのまま終わらせず、やるだけやってきたから今回はこれで良し。苦手なままでも構わない。こうして話のタネが増えるし、頑張り方も自分のキャパもわかるから。過程が無いと誰かにこんなベラベラと話せすらしないし。

この私の話を聞いてあなたの心が動いたなら、とても満足だ。
動かなかったのなら、まあそういうときもある。
結果はどうであれ、このエッセイを読んだ過程が大事なのだから。

さあ、明日はまだ行けた試しがない、喫茶店のランチにでも挑戦してみようかな。