「わきまえない女」という言葉を知ったのはtwitterからだった。twitterのトレンドに載っていた、初めて見る言葉。検索して見ると、その言葉に対する反感の声が次々と目に飛び込んできた。
それを見て、思わず私は思ってしまった。

今さら何当たり前の事を言ってるんだ?それって「女性だから」って理由で虐げられていいものじゃない。というか、性別の問題ではなく一人の人間の主張として通って当たり前の事だろうと。
否定したいのは声をあげた彼女たちに対してではない。本来なら一人の人間として認められて当たり前の事を、女だからという性別上の理由だけで認めてこなかった社会に対してである。

身体的な性別に縛られた「わきまえない女」という言葉自体に違和感

まず「わきまえない女」という言葉自体に違和感がある。
女だからわきまえなきゃいけない?なんで?わきまえることが出来る女が女だと言うのか?じゃあ男はわきまえない男でも許されるけど、女は許されないということなのか?
いいや、そんなことあってはならないだろう。性別が男だろうと女だろうと、自己主張をしてはならない、わきまえなければならないなんてルールがあってたまるか。

子供の頃からずっと疑問に思っていた。なんで自分の主張や気持ちではなく、生まれ持った身体的な性別に縛られなければならない時があったのか。
両親はそこら辺は自由な方だったけど、外の世界はそうではなかった。
クラスメイトや周囲の大人たちから「女の子だから〜」「女の子らしい〜」と言われるたび、私の中では疑問符が浮かんだ。女の子女の子ってなんだ?女である前に私は私なんですけど?

なぜ私という一人の人間ではなく性別である女性として扱われなきゃならないのか。世間的にいう女の子らしいから外れたら悪いことでもあるのか。
でも逆に「男の子っぽい〜」という言葉にも違和感を抱いていたのも確かだった。というよりも、そもそも性別で割り振られること自体に違和感があったのだと思う。

私の思考に性別なんて関係ないのに、「らしさ」のレッテルを貼られる

例えば自分の好きなもの。私は世間的にいう「男の子らしいもの」と「女の子らしいもの」、そのどちらにも好きなものがある。かわいい服が好き。でもメンズのようなカッコいい雰囲気の服も好き。少年漫画が好き。でも少女漫画も好き。

私にとっては世間的にいう性別のらしさは関係なく、「私はこれが好きだから好き!」というスタンスなのである。そこに性別は関係ない。私の好きなものを、他人から性別で決めつけられてたまるか。

世間にある性別による暗黙のルール。初めてそれを感じたのは「らしさ」という他人が貼ったレッテルからだった。
「らしさ」ってなんだよ。私の思考に性別なんて関係ないじゃん。自分が好きなものや自分の言いたいことを、どうして他人に口出しされなきゃいけない?私が女じゃなくて男だったら、それ、言わなかったよね?そう思ったことは何回もあった。「女のくせに」と突っぱねられて、どうして私個人の意見として扱ってくれないの?と悲しくなることもあった。

男だろうと女だろうと、一人の人間として見るべき

そう、思考に男女は関係ないのだ。あのtwitter上でも話題になった「わきまえない女」という言葉の通り、言われるがまま黙って従うのがわきまえることだと言うのなら、それは会話が成立しているとは言えない。言いなりになるだけの女がわきまえる女な訳がない。

そもそも男だろうと女だろうと、一人の人間として見るべきだ。その人がその人らしくいられるように、この性別だからこうだというのは抜きにして。どんな意見も主張も男だから、女だからではなく、その人個人の意見として。

世間で誰かが勝手に決めた性別の暗黙のルールに従えない人を「わきまえない」と言うのであれば、どんな人たちも「わきまえない男」「わきまえない女」であれと私は思う。
自分で選ぶことすらできないのに、生まれてきた性別で自分らしさを他人に否定されるなんてことはあってはならない。自分のことは責任を取れもしない他人が決めるんじゃない。
自分は自分のものだ。

従うだけの「わきまえる人」をやめて、「わきまえない人」になれ

時々、なぜ人間を生み出した存在は肉体を大きく分けて二種類にしたのだろうと思う。本当は性別上の肉体やパワーバランスの違いがなければもっと平等になっていただろうに。
現代では性別による肉体の都合上、完全に平等にすることは出来ないと思う。力は男性の方がある。出産は女性にしか出来ない。性別上の肉体的な役割分担はどうしても避けられない。
どうにも出来ない以上、生まれ持った性別の肉体の能力を互いに尊重し合いながら、得意なものと不得意なもの出来ることと出来ないこと、それぞれの役割を果たすしかない。

いつか今で言う「わきまえない女」、「わきまえない男」という言葉がなくなるような社会になるといいなと思う。
大人しく従うだけの「わきまえる人」をやめて、「わきまえない人」になれ。誰もが自分の意見を対等な立場で言うことができる、それが当たり前の社会になるまで、どんな人も「わきまえない人」であれ。
みんなが「わきまえない人」になれば「わきまえない人」が当たり前の世界になる。そうすればわざわざ「わきまえない人」などと呼ぶ必要もない。

わきまえる人々よ、わきまえない人であれ。