3年前、当時の勤め先の責任者に「イギリスへ修士号を取るために留学するので辞めたい」と伝えた時、彼が最初に放った言葉は「おめでとう」でも、「頑張って」でもなく、「じゃあ、いい人を探してこないとな!」だった。

20代の女が海外へ行くと言った時、頭に浮かぶのはそういう事なのか

は……?

瞬時に意味が汲み取れず、私はしばらく固まってしまった。
しばらくして彼の意味するところを理解した瞬間、心臓にスッと一本メスを入れられたような感覚に襲われた。
そうか、20代前半の女が海外へ行くと言った時、この人の頭の中に浮かぶのはそういう事なのか。
私の「夢を叶えるために海の向こうまで勉強をしに行く」という大きな決断は、その程度の事だと思われているのか。
女にとって重要なのは勉学よりも良い相手、なのか。
笑えるほどカビの生えた価値観。
私が20代の男だったら絶対に言われることのなかった言葉。
ショックを受けるほどのことではなかったけれど、失望はした。
彼にも、そして彼のような考え方の人間を生み出しているこの社会にも。
心の中にドス黒く広がった嫌なものに蓋をして、あははそうですね、と愛想にも程があるような作り笑いで適当にその場を流した私は、ある意味“わきまえた女”と言えるのかもしれない。

でも、私は心の中でほくそ笑んでいた。
いいわ、分からないなら分からないで。
あなたがそういうことを言っている間に、私は海を越えて自分の目で世界を見てやるんだから。
その道の第一人者の先生方に教わって、自分を磨くの。
凄まじい才能を持った人たちの中で、揉まれて揉まれて死ぬ気で努力するの。
自分がどこまで行けるのか、人生をかけて勝負をするの。
“わきまえない女”の本気を見るがいい。

希望を胸に乗り込んだイギリスでの数年間は、かけがえのない時間に

一度溢れた水は、二度と盆には返らない。
多くの人が良しとする絵にかいたような“わきまえた”女性の人生は、留学を決めた時点で永遠に私のものではなくなった。
特定の年齢までの結婚、子供、マイカー、マイホーム。
そういう物は全部、世間が設ける“期限”とやらに間に合わないだろう。
でもそんな事、全て覚悟の上だ。
そうまでしても価値があると思ったから、私はここを飛び出すのだ。
だってそれが、私だから。
私は、“わきまえない女”だから。

そうやって、少々肩に力が入りつつも希望に胸を膨らませて乗り込んだ、イギリス・ロンドン。
ここで暮らした数年間は、誇張ではなく本当に、人生で一番“私らしく”過ごせた時間だったと思う。
母国語が使えない、家族もいない。そんな完全アウェーの環境なのに、なぜか信じられない程、居心地が良かった。

ここでは、自分の価値観や物の見方が、社会と一致しているという実感があった。
自分や、自分自身の選択を、いつも肯定してもらえているように感じた。
東アジアの端っこから来た20代の女の子なんて、きっと西洋白人社会では一番“弱者”だろうに、記憶にある限りでは誰も私をそんな風に扱わなかった。
私を、一人の意志のある、未来のある人間として、接してくれた。
それは、ただ単に私が出会った人たちが素晴らしかっただけなのかもしれないけれど。

私に起きた変化は“かぶれ”ではなく、私のままで生きていいという“お墨付き”

日本には、海外経験を経て変化した人を揶揄する『海外かぶれ』という言葉がある。
この、時代にそぐわない島国コンプレックス丸出しの言葉が私は大嫌いなのだけど、留学を経た今、きっと私もこの『海外かぶれ』とレッテルを貼られる側の人間になっているだろう。
『かぶれる』ことがなんら笑われるような恥ずかしい事でもないというのは大前提として、私自身の感覚としては、海外生活を経て私に起こった変化はこの『かぶれる』とは微妙に違う事のように思う。
それはどちらかというと、『お墨付きをもらった』という感覚に近い。
自分の感覚を信じて進めばいい、誰に何と言われようと私は私のタイミングで生きていけばいいのだ、という『お墨付き』。

目の色も、肌の色も、髪の色も、一人として同じ人がいない。
様々な人種や年齢、宗教の人が同じクラスで学び、同じ職場で働き、各々の夢に向かって全力で頑張って毎日を生きている。
そんなロンドンの環境が私にもたらしたものは、“わきまえ”とは正反対の、圧倒的自己肯定感の『お墨付き』だった。

今だにクヨクヨ悩み、情けなく泣いたりもする。でも、それでいい

イギリスでそんな『お墨付き』をもらった私は、パンデミックに見舞われたり色々紆余曲折ありながらも無事に学校を卒業し、今年の春から日本を拠点として夢だった仕事を始める。
修士号を取らなければ絶対に手に入れる事ができなかった仕事だ。
そして、冒頭の彼が意味したのとは微妙に違うかもしれないけれど、海の向こうで出会った沢山の“いい人”達とは、渡航が思うようにできない今も強いコネクションで結ばれている。
いつか海外でも仕事がしてみたい、海外を拠点にしてみたい、そんな私の夢を支えてくれる力強い味方だ。

“わきまえた”、安全な人生を捨てた自分の選択に全く後悔がないかと問われると、後悔はしないけれど違う生き方もあったかもしれないと思うのは事実だ。
今だにクヨクヨ悩み、壁にぶち当たる度にやはり私には無理なのかもしれない、と情けなく泣いたりもする。
でも、それでいい。
そんな風に真剣に、真正面からぶち当たっていく生き方が、私の性に合っている。
“わきまえない女”の冒険は、まだ始まったばかりである。