使い方に気をつけなければならない「女子力高い」も「女っぽいね」も私にとっては褒め言葉だ。
もっと言えば「可愛い」「きれい」「エロい」全部そうだ。
女扱いされることは喜びだし、メイクは楽しい。
レースもフリルもリボンもピンクも花柄も大好きだ。
生まれ変わってもまた女になりたい。
そんな私でも昔からひとつだけどうしても納得できないことがある。
それは「結婚したら、女は子供を産むべき」という風潮だ。
子供心に「どうして誰もが結婚するって決まっている?」と思っていた
私が小学生の頃、プロフィール帳なるものが流行っていた。
自分の誕生日や住所などを記入する個人情報ダダ漏れのそれは、ちょっと距離が遠い相手でも、書くことによって自分を知ってもらって仲よくなれるアイテムで、結構好きだった。
好きな色や将来なりたい職業、自分の長所や短所。
比較的スラスラ答えていたが、私が困っていた質問がふたつある。
それは「何歳で結婚したい?」と「将来子供につける名前」だ。
子供心に「どうして必ず誰もが結婚するって決まっているんだろう?」と思っていた。
「子供につける名前、子供に聞く?」とも。
それは高校生になってまわりがゼクシィ片手に「20代のうちに子どもは2人欲しい」などと色めき出しても変わらなかった。
自分は決して結婚しないだろうと思っていた。
恋愛を謳歌し、仕事をバリバリし、ひとりで自立して生きていく女の人生の方がずっと幸せじゃないかと思っていた。
子供嫌いで、結婚願望もない、家事も好きじゃない私をそれでも受け入れてくれた現在の旦那さんと出会わなければ、きっと一生しなかっただろう。
結婚し、身近になった子供問題。当たり前の家族の形が愛せない
でも結婚したら子供問題はなおさら身近になった。
両家の家族に子供はいらない旨を旦那さんにも協力してもらって話したし、会社の人にも話したが、おそらく理解されていない。
それは今のことだけだと思われているようだ。
全国、いや全世界のお母さんを尊敬しているし、子は鎹であり宝なのも頭ではきちんと理解しているつもりだ。
でも親友に子どもができても、羨ましいとは思えない。
どんなに我が子を持つことが素晴らしいのか様々な人から説かれても、欲しいと思えない。
周りの女の子、大抵が持っている欲望をどうして自分は持てないのだろうと毎日のように考える。
多分、私が子供を産めば家族は幸せだろうとも揺れる。
彼氏としても夫としても完璧な旦那さんを父親にしてあげられなくていいのかと悩む。
当たり前の家族の形が愛せない。
全然憧れない。
子供や赤ちゃんだけではない。
動物も後輩も何かの面倒を見ると言うことに私は昔から一切の興味が持てない。
自分の子供が欲しいと望めて、赤ちゃんを可愛いと判断できる「正常な女の子」より、私は圧倒的に母性が欠如しているのだろう。
枯渇していると言ってもいい。
私にとって子供を産めということは、明日から男として生きろと言われるのと同じくらいの違和感なのだ。
子供を持たないという選択肢を自然なこととして追加して欲しい
生理のことは教師や親から学んだ。
でも教科書のどこにも子供が可愛いなんて載っていなかったじゃないか。
子育てや我が子はかけがえがないなんてどこのページにも書いていなかった。
友人たちは一体いつ誰に教えてもらったのだろう。
私には覚えがない。
この風潮と私はいつまで戦っていけばいいのだろう。
常識を疑う人がどうしてこうも少ないのだろう。
子供を持たないという選択肢を自然なこととして追加して欲しい。
不仲なのかなとか病気なのかなとか変わってるのかなとかそういう偏見の目を向けずに。
結婚しても子供のためじゃないセックスがしたい。
これだけ自分の中で答えがはっきりとわかっているのに、一方でその意思を今後もずっと貫き通せるか私には自信がない。
家族や会社、友人など、私にとっての数少ない「みんな」の「結婚したら子供を作ることが普通です」というプレッシャーに負けて流されてしまうのではないか。
自分の人生の舵取りを自分でできるだろうか。
疲れて諦めてしまうことがこわいのだ。
自分の選択に誇りをもって、自分にとっての「あたりまえ」を生きたい
それは私の中で嫌われたくない、孤立したくない、非難されたくない、という思いがあるからだ。
自分の思いを通すより、なんとなく自分の頭上や周囲を覆っている「正しさ」に従った方がラクなのだ。
でもラクして生きられることが=幸せではないこともわかっている。
傷ついても敵を作っても自分が幸せだと納得できる道を選べる強さや勇気が私には足りないのだろう。
わきまえないで生きていくのは難しい。
自分の信じたものを、周囲の「こうあるべき」という圧なんか撥ね除けて、かっこよく逞しく生きられたら。
自分にとって譲れない思想を、最後まで守りながらハッピーに生きられたら。
今は難しくても、いつか思い悩んだり煩ったりせず、自分の選択に誇りをもって、自分にとっての「あたりまえの日常」を生きたい。
多種多様な「わきまえない女」たちが自由に健やかに生きられる時代がこの先来たらいいと強く願う。