社会人はいわゆる『大人』に分類されると思う。社会に出て、仕事をして、お金をもらって。新卒であっても、それが何歳であっても『大人』であることに変わりはないと思う。
しかし、小さな世界の中ではそんな理論は許されない。
「あなたは社会人経験がまだ浅いから」
社会に出てから3年。そんな言葉を幾度耳にしただろう。お給料をもらって仕事をしているはずなのに、私の言葉は『若者の幻想』としてでしか受け止めてもらえない。
だから私は『大人』でないフリを今日もするのである。
この会社で求められることは、大人が描く「理想の子ども」でいることだ
上司は会議でいつも「あなたはどう思う?」と最年少の私の意見も聞いてくれる。
しかしここで求められているのは正論ではない。若者としてのピュアな肯定意見だ。
「私は詳しくないので参考になるかわからないですけど」と枕詞をつけて話す。
ああ、上司は満足そうだ。
先輩は「これはこうでね〜」と丁寧に説明をしてくれる。5分で終わる話が10分も延びてしまったが仕方がない。既に理解しているシステムの説明を、私はさもはじめて知ったかのように聞き入れる。
「おじさんだからわからなくてね」とSNSの使い方を聞かれることもある。若手である自分が先輩に頼られる数少ない場面だ。
決してここで「10年以上前からあるSNSの使い方も知らないなんて、社会で10年何をやっていたんですか?」などと聞いてはいけない。
いつの間にか慣れてしまった『大人』たちとの関わり方。社会にいる時間が経過するほど、思考を捨てることになんの躊躇いもなくなってきた。
協調性が求められる会社の中で若手の私がすべきことは『大人たちの理想の子ども』でいることなのである。
立ち向かうのではなく、「大人ではない」と思われていることを逆手に取る
漫画や小説の主人公なら、ここでどうにか立ち上がるのだと思う。
仲間を集めて、上司という名の敵に立ち向かう。最後には和解をして全員で協力し、その先には大団円が待っている。ハッピーエンドのストーリーはいつだって需要しかない。
物語の世界ならば。
金銭も時間も自分には関係ない。そんな世界の話だからこそ、人はハッピーエンドを求める。「自分には得られない」とわかっているからこそ良い結末を本能的に求めているのかもしれない。
こんな薄汚れた社会の中では、夢物語は終わりにしなければならない。村人Aとして、黙々と社会の歯車に飲まれるしかない……というのも癪ではないか。
だから私は『大人でない』と思われていることを逆手にとる。
「若手で社会を知らないから」「空気読みというものを理解していないから」そんなフリをして、多少の無茶を投げつけるのである。
その相手は自分の直属上司のさらに上の上司。現場レベルで対処できる内容であれば「やってみれば?」と意外とすんなり話が進むことが多いことを私は知っている。
物語の主人公のような大きな変革はできなくても、影からじわりじわりと侵食していくことはできる。失敗しても仕方がないよね。だって『社会人経験が浅い子ども』なんだから。
今日も自称『大人』たちに逆らうことなく、私の世界の安寧を図る。
これが私なりの『大人』の在り方である。