その美しい朝の空のような、水色の背表紙を見つけたのは中学校の図書室だった。私は、一年生になったばかりだった。
「空色勾玉」というタイトルの通りの色をしたその本の物語に惹きつけられるように、いつのまにか手に取っていた。
ページをめくっていくと、1ページ丸々使って第1章「水の乙女」というタイトル。となりには引用の和歌が書いてあった。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
(崇徳院『詞花和歌集)

読んだ瞬間、どおどおどどど、という滝川の急流が聞こえた気がした。
その激しい流れは巨大な岩に急にせき止められ、そこが運命だったかのように大きく二つに分かれてしまう。
ああ、このタイトルの「水の乙女」は、この急流のように誰かと永遠に別れてしまったのだろうか?それでも、いつかきっと、きっとこの人生の果てで、またはその向こうで、その人とまた会おうと言っているのか。
たった1ページ、たった数行で流れ込んできたその物語のイメージに、私は圧倒されて立ち尽くしていた。

美しい言葉で描かれた世界は、学校になじめなかった私を虜にした

私は小学校の時から、なんとなく和歌が好きだった。でも学校の教科書でなく、自分が娯楽で読む物語の中で和歌というものを見つけたのは、その時が初めてだったと思う。
「空色勾玉(荻原規子著)」は日本の神話の世界を下敷にしたファンタジーだ。
主人公は15歳の少女、狭也。平凡な村娘だったが、月の神に見染められ古代の日本「豊葦原」の争乱に巻き込まれていく。過酷な運命の中で、自分を見つけて、世界の美しさを見つめて自らの生を切り開いていく彼女の姿に、ページを繰る手が止まらない。気づいたら自分の部屋の窓の外が明るくなっていた。

この物語の中で特に心躍るのは、狭也が見つめる世界の描写だ。
「若苗の淡緑」「あぜに咲くアヤメの濃紫」、彼女が持つ勾玉の「明るい空の色」「やさしげでいて内に潔さを秘めた色」。彼女の目に映るカラフルな世界、そしてそこに息づく神々の気配が、彼女の心の思いとリンクしてどんどん広がっていく。
この感覚は、私が教科書で和歌を読んだ時の感動の延長だった。
空の色、太陽と月、揺れる緑、流れる水や、咲く花散る花の中に、自分の心の動きがなぜか見えること。まるで、自分の心の中が、外の世界に流れ込んでいるような感覚。
自分が、流れる世界の一部であると感じること。

物語の筋はもちろん、今の日本とも違う、まるで異国のような世界観に私は虜になった。
それは、学校の教室の中で、なんだか浮いてしまっている、自然体でいられない自分を忘れさせてくれた。自意識過剰で周りとなかなか馴染めなかった私にとって、物語の世界は自分らしく息ができる場所だった。
あの時、孤独を感じても学校に行けたのは、圧倒的に好きな自分だけの世界に、本が出会わせてくれたからだと思う。やがて学年が上がるにつれ、同じ本が好きな友達にも出会うことができた。

あの世界を表現したくて、日本の伝統芸能について学んでいる

あの時の、和歌や日本語が紡ぐ世界の描写が忘れられなかったせいなのか。
今、私は日本のある伝統芸能の奏者となるために師匠について勉強している。
毎日の課題に追われて「好き」という気持ちなんて忘れがちになってしまった。それでも、たまに自分の好みの言葉が歌の中に出てきた時。歌の中の世界観に圧倒された時。舞台でそれを少しでも表現できたような気がする時。
私はあの本を読んだ時のような、多彩で巨大な、美しい世界に身を置けている気がする。
その名残をまた感じたくて、私は(超面倒臭いけど)この芸能を続けているのだと思う。

たまに、もっと今っぽいことを好きになりたかったと思う時もある。そうすれば、怠けるのが大好きな私は、こんな面倒くさいことを仕事に選ばなかったのではと思ってしまうのだ。それでも、しょうがない。これが私なのだから。
さあ、今日もまだ覚えていない歌と楽器の手付けを覚えなければ。あの美しい世界にまた出会うために。