私がまだ中学生だった頃、国語の時間に「自立とはどういう意味だと思う?」と先生に聞かれたことがあった。
その質問に、チャランポランな頭を乗せただけの当時の私は「一人で生きていくってことです」と答えた。

続けて先生は、隣の子、隣の子と順番に何人かの生徒に同じ質問を繰り返したが、似たような回答しか返ってこない、もしくは口ごもる様子を見かねて「じゃあ、独立と自立は何が違うの?」と今度は教室内の全員に問いかけた。
もちろん、社会経験のない13、14歳の生徒たちは誰も答えられない。

教室が静まり返った後、
「あのね、自立っていうのは自分ひとりじゃできないの。周りに人がいるんだよ。でも誰かにもたれかかって生きているわけじゃない。適度な距離を保ちながら、倒れそうになったら支えてもらって、倒れたら起こしてもらうのを助けてもらって、そうして立ち上がったらまた一人で歩き出すんだよ。それが自立」
と、先生は静かに語った。

高校を卒業し、地元を離れ一人暮らし。私は自立とは程遠かった

その言葉をしばらく忘れたまま、気がつけば私は中学校を卒業し、高校を卒業し、一人暮らしを始めていた。
地元へは気軽に帰れる距離ではないため、初めての引っ越しを終え、じゃあねとこちらに手を振りながら、最寄り駅の改札に吸い込まれていく母の背中を見て少し泣いた。
新居という異空間に戻ってもそれは収まらず、今度は声を出してぼろぼろ泣いた。

今でこそ笑えるが、「もう一生会えない、自分は戦地に送り込まれたのだ」と感じていた。それは自立とは程遠い、家族への依存を表していた。そこから私は「一人で生きていくためには弱くてはいけない」と思いこんで、新生活を楽しんでいるかのように振舞った。
だが、中身はあの頃、先生の質問に苦し紛れに答えた子どものままである。次第に、私は燃料が切れたように起き上がれなくなってしまい、そんな自分がふがいなく、どんどん引きこもっていった。

本当の自立とは何か。中学校の先生の言葉をやっと思い出した

そんなある日、母から初めて仕送りが届いた。
配達員の方が息を切らすほど重く、ガムテープでぐるぐる巻きにされた大きな段ボール箱の中に、食品と生活用品がパンパンに詰まっていた。野菜ジュース、缶詰、大量のお菓子、ラップ、洗剤……それらをひとつひとつ取り出しながら私はまた泣いていた。
だがそれは、今までとは違う。
自分は孤独ではない、頼れる場所があるのだという安心からだった。そして私は、やっと先生の言葉を思い出した。

「本当の自立とは何か」
思えば、大人に対して理想を抱きすぎていたように感じる。大人とは、当たり前に自炊をし、整頓された家に住み、使う食器は全部ピカピカ、こだわりの道具を使って身支度をすませ、休日は友人と出かける。そして、家に帰ってホッと一息ついたら勉強をし、軽く本を読んで寝る。
そんな姿を想像していたし、それが私の描く理想の大人像だった。

しかし、実際にこんな生活をしている人はほとんどいない。みんな何かに苦しみ、悩み、それを誰かに打ち明けたり、打ち明けられず夜中に涙を流したりしながらも、一歩外に出れば平気な顔をして歩いている。
私はそこに気づかず、大人になるにはいつ何時も明るく生きていなければならないと思い込んでいた。生きるためにわざと孤独にならなくていいことを忘れてしまっていたのだ。

大人になるために。環境の変化に振り回されながら今日も一歩踏み出す

これを書いている今でも、私のこころの中にはあの頃の14歳がいる。それは消えてなくなるものでもなく、上書きして誤魔化すものでもないから、時々ひょっこり現れては悩みの種を植え付けてどこかへ行ってしまう。おそらく死ぬまで一緒にいると思う。

だが、一つ変わったことと言えば、そんな自分の一面を受け入れることができるようになった。それは、環境の変化に振り回されながらも、大人の一員になるためにたくさんの言葉や人に支えられつつ歩行訓練をしてきたからだろう。

これからも私はいつか全力疾走する日を夢見ながら、よたよたと歩く練習を続けていく。そんな小さな思いを抱きながら、玄関のドアノブをひねり、今日も一歩踏み出す。