「久しぶり〜。全員が25歳になったね〜。25歳ってやばくない?」
「彼氏とどう?◯ちゃんは結婚したらしいよ」
「その服、あそこのブランドでしょ。欲しかったやつだ!私はボーナスでLOEWEの財布を買うって決めて叶えちゃった。次は何にしようかなって思ってるところ」
2021年が終わる年の瀬。久しぶりに大学の頃にいつも一緒にいた女友達で集まった寒い都会のレストランで、久しぶりに心がズキズキした私。

25歳、どんな女になればいいのだろう。数字の重みがズシンとのる

25歳の女。どんな女になればいいのだろう。
テレビドラマで見るようなヒロインのように、颯爽とスーツを着こなしながら仕事をしたらいいのか。
いいブランドの服に身を包んでメイクもばっちり。お肌をピカピカさせながら、ふんわりと良い匂いを漂わせて男の人とデートしたり買い物を楽しんだり。そろそろ結婚を考える人なんかいたりして。

お誕生日おめでとう、25歳だね。父にも母にも、祖父母にも、周囲にもその言葉を言われるたびに25の数字の重みがズシンと体全体にのし掛かってきた。
なんでだろう。嬉しいはずなのに、なんだか悲しい気持ちになったり追い詰められたりするような感覚。
きっと、どんな女になれば良いのか、母が25歳の頃や周りの友達、小説やドラマに出てくる25歳の女となんとなく自分を比べて、これで合っているのかなあなんて思うからだ。

非難されたわけでもないのに周囲と重ね、自分の物差しをつい忘れそう

スタイルが抜群なわけでも、洋服やコスメのブランドにもそこまで執着するタイプでもなくて。彼氏と言える男の人がいたこともないし、すごく稼いでいるわけでもない。
なんだかこんなんで大丈夫かな。今このままの自分は25歳の女として釣り合っているのかな。
大好きなはずの親友たちを目の前にした時に、再びそんな風に思ったのだ。

みんな同じような靴を履いている。きっと今のトレンド。そこそこ値段のする良いコートを羽織ってヒールの音をレストランに響かせて。
帰りに有名な紅茶を買って帰るね、とデパートの入り口へと消えていった。
自分のことを非難されているわけでもないのに、靄かかった渦があっという間に心の中をいっぱいにして不安にさせた光景だった。

小さい頃ってこうしなくちゃいけないなんてないし、周りから見られている自覚もないから。ありのままの自分をさらけ出せていたけれど、歳を重ねるたびにその歳の数字に自分が追いついているのかをぼんやり考えるようになっている自分がいた。
周りが見えるということは、大人になるということでもあるんだけれど。沢山の周囲のアイデンティティと評価とそれぞれの気持ちが複合し合って、自分の物差しをつい忘れそうになる。

強くありたいと願いながら、そうもいられない自分の弱さに気付いた

ひと昔前に比べると、随分多様な選択が認められるようになって、色々な生き方があって良いと思える人や映画や小説に出逢えたり、私の良いところを心から褒めてくれる人なんかもいたりして、それでこそ救われる気持ちになる。
強くありたいと心で願いながら、そんな強くもいられない自分の弱さに気付いた年の締めくくりだった。
それでもきっと、弱さに気付いたところから人は強くなろうとするのかもしれない。「私が決めたことだから。私はこれでいいんだから」と、敢えて自己中心的のようなすこぶる熱いエネルギーで呪いをかけようとする、もう1人の自分と闘いながら、きっとこれからも生きていく。
生きてやるんだから!