中学3年生の卒業文集で、将来の目標を書く欄があった。学校で公式に出すようなしっかりした文集ではなかったので、みんなかなり自由に書いていた。
「四次元ポケットを作る」「空を飛ぶ」「宇宙に行って火星人の友達に会う」……。正直なところみんなふざけていた。
しかし、私は大まじめに「きれいに年をとる」と書いた。もちろんかなり浮いたが、私は本気だった。それと同時に、きれいな年のとり方っていったい何なのだろうと、目標がうっすらとした概念でしかなかった。

きれいに年を取るとは?友人からの質問に言葉が詰まってしまい

中学生にしてきれいなおばあさんになりたいなぁ、と思っているのはなかなか変な子供と思われたのかもしれない。友人と文集の話になったとき、こう聞かれた。

「きれいに年をとるって、どういうことなの?若作りってこと?」
友人に悪気は一切なかっただろう。しかし、私は言葉に詰まってうまく答えられなかった。そして私が持っていた「きれいなおばあさん」という概念が音を立てて崩れていく感覚があった。

私はただの若作りを望んでいたのか?自分の年齢にできる限りあらがって、若さという必ずみんなが失うものを常に追い求め続けたいと思っているのだろうか。
いや、そうじゃない。私の中にあった「きれいなおばあさん」という概念は、年齢にあらがうことなく「素敵なマダム」になることだったような気がする。

じゃあ、年齢にあらがっていない「素敵なマダム」って何なのだろう?友人の何気ない質問で、自分の中でははっきりした概念のはずだった自分の目標が全くわからなくなってしまった。

概念でしかなかった「きれいなおばあさん像」を言語化してくれた本

その時、村田沙耶香先生の「きれいなシワの作り方~淑女の思春期病」というエッセイ集が目に入った。タイトルに惹かれて買ったその本は、私の中にある概念でしかなかった「きれいなおばあさん」像をはっきりと言語化してくれていたような気がした。

村田先生は年上の美しい人のシワが好きで、笑ったときの目尻のシワなどを素敵だと感じる一方で、自分の体をコントロールすることはできないとわかっているのに、自分のシワにクリームを塗りこんでしまうという。
素敵な人生を歩んだ人に、きれいなシワができると昔から思っていたからだ。
いつか自分にできたシワを、自分の歩んできた人生を表した自信作だと笑って鏡を見ることができるようになりたいと、エッセイに書いている。

年齢を重ねることは世間一般には悪いことだと捉えることが多いと思う。だけど誰もが若さというものを無条件に失うものだし、どうせ年をとるのであればそれをワクワクするような事象にしてしまいたい。
周りからは良いものだと捉えられないシワも、これが自分のチャームポイントであると胸を張れるようになりたい。
また、そんな自分の歩んできた人生への絶対的な自信を持てるようになりたいと思っている。

いつか頬にできたシミも「自分の歩んできた人生」だと自信を持ちたい

そんな私はまだ20代前半なのだが、最近頬にシミらしきものを見つけた。そしてそのシミを見つけた後、化粧水と乳液を「美白」と書かれた商品に切り替えた。
我ながら現金な奴だなと思う。さっきまでの威勢は何だったのだろうか。自分はまだまだ自信がなく精神が若いな、と思う。

このシミらしきものを自分の歩んできた人生そのものだと自信を持てるのは、ずいぶん先になりそうだ。
その頃には人生経験をもっとつんで、素敵な人間になっているだろうか。なっていてほしい。周りの人間が年をとった私をオバサンと形容しても、その重ねた年齢の分だけ自分に自信を持っていられるような人間になりたいと思う。