イギリスに行った時、母国語とはなんてうるさいものなんだと気付かされた。
今から4年ほど前の大学2年生の夏、ユーラシア大陸を飛び越えて初めて降り立ったその土地は、世界共通語と呼ばれる英語が生まれた場所だった。

英語は学校で必修科目だったし、英会話塾にも通って会話の方法を練習した経験があるというのに、発されるその言葉は集中力全開で注意を向けないと、その言っている意味がわからなかった。

母国語は、どんなときでも構わず耳に侵入し、勝手に理解するもの

慣れ親しんだ言語がそこら中に散らばっている土地で、母国語という奴らは、ため息をついている最中でも構わず耳に侵入してくる。何の障害物もなく勝手に理解してしまうその言葉に、意味もなく傷付いたり、それが引き金となって嫌なことを思い出したりする。

例えば「ムダ毛がどう」とかいう論争だとか。
「ムダ毛」という言葉に出会ったのは中学生の頃だった。恥ずかしながら、同じクラスの男子に指摘される形で知った言葉だった。確かに、薄い色の肌に濃い色の毛が生えている見た目はパッと見て衛生的な印象を与えないような気がして、すごくすごく恥ずかしかった。

でもその一方で、髪の毛は生えてなきゃいけなくて、腕や脚の毛は生えてはいけないということがどうしても納得いかなかった。もっというと、なぜアジア人だけがこんなにもムダ毛に対して敏感なのか、一歩間違えれば自虐的人種差別ではないのかという気さえした。

旅の最中に私は「観光客」という透明マントをはおり、自分を守った

あの夏、イギリスのケンブリッジで出会った同い年の女性がいた。彼女の腕では毛がフサフサと気持ちよさそうに風に吹かれていた。私はそれに「美しい」と感じていた。
陽の光を浴びて風をうけて、彼女の腕で気持ちよさそうに揺れる毛。それをムダと切り捨ててしまうのはなんて勿体無いことだろうか。

ああ、アレは私の腕にもかつてあったものだというのに。今も私の腕で輝いていたかもしれないモノは、もう私の腕に生えていなかった。その毛がムダであるかどうかを気にすることなく、ただ吹かれるままに感じるケンブリッジの風は清々しく心地よかった。

もしかしたら、私が聞こえていないところで現地の人たちが私の姿を見て、あれやこれやと言ったのかもしれない。アジア圏外でも「ムダ毛」の概念はあって、その範囲や捉え方が違うというだけで、私は知らず知らずのうちにムダな毛を大勢の前で晒していたのかもしれない。それを現地の誰かが指差してひそひそ声で貶していたのかも。

でもそんなことはただの観光客である私には関係がなかった。言われている事実がもしあったとしても、聞こえていないんだもの、意味がわかっていないんだもの。
そりゃ土地が違えば文化も大きく変わるのが当たり前だし、そこに引っ越して住もうとしているわけじゃないから、無理に郷に従おうとする必要もない。旅の最中に私は自身を「観光客」という透明マントで守ることができていた。

意味が入ってこない言語のおかげで、私は純粋な感性を楽しめる

旅行とはレジャーで、異国の言葉が飛び交う場所の空気を吸って楽しもうとする、ただそれだけのこと。
そこで飛び交っているのは、気を使わないと意味が入ってこない言語。そのおかげで、私は私が見たままの景色や感じたままの風景を何の疑いもなく「美しい」と受け取ることができる。誰かの物差しじゃなくて、純粋な私だけの感性で、その風景を楽しむことができる。

わたしに旅が必要な理由。それは旅が、私だけの美しさを取り戻すための作業であるから。言語化されたようなよくある風景ではなく、言葉を超えた領域で私が美しいと素直に思える風景を見るために、私のイギリスの旅があった。