仕事ぶりを買ってくれて、たくさん議論をし、セクハラに一緒に怒ってくれた職場の先輩は、恋愛の話になった途端、
「守ってあげたくなるような女の子が好き。やっぱり女の子には癒されたい」
と言い出した。
ブルータスお前もか、と言いたくなった。

「可愛くいてほしいだけ」と言いつつ体形に苦言を呈す。そんなもんだ

別れた夫は結婚するとき、姓をどうするか話し合おうとしたら、「俺、婿入りするわけじゃないんだけど」と言ってきた。私だって嫁入りするわけじゃないと言ったら豆鉄砲食らったような顔をしていた。
私は最近、「可愛くいてほしいだけだよ」と言いながら体形に苦言を呈し、ジェンダー関係の本が並ぶ私の本棚を「怖い」と言った恋人と別れた。
男の人はそんなもんだ。

挙げればきりがない、言葉にするほどでもない、日常に葬ってしまえるくらいの、それでも蓄積されていく澱みのような棘のようなささやかな絶望で、私の視界はすっかり曇ってしまって、結局、性別でひとくくりにして「そんなもんだ」なんて、自分が一番嫌いな思考回路にたどりついた。

わきまえない女、と聞けば、社会の圧力なんかに屈することなく自分の主張を貫き、周りの目なんか意に介さない女性を思い描いてしまう。
だけど、問題に気付くことは、生きづらさを加速させる。
問題に気付いたって、状況は同じなのだから、問題を自覚した分、「かくあるべき」と全くそうなっていない社会とのギャップに何度だって傷付く。
「かくあるべき」を社会に提示し、「かくなってない」社会を批判し、風刺する言説に出会えば、頼もしいと思う。

「かくあるべき」と声にしたときの、心ない前時代的非難は聞き飽きた

一方で、自分の経験とダブって傷付いて、現実はまだそんな次元なのかと落胆して、当事者が絞り出した切実な訴えに向けられる心ない前時代的非難の数々に絶望する。
「かくあるべき」と声にしたときに返ってくる反論なんて、パターン集が出来そうなくらい聞き飽きている。
蓄積された反論集は、いつのまにか私の行動様式を侵食する。
いつからか、消化しきれないもやもやを言葉にするとき、わざわざ「めんどくさい性格なので」と枕詞を付けるようになった。
間違ってないと思っていても、周りのひとが自覚していない問題を、問題と指摘するのは、いつだって怖い。
めんどくさいとか、過敏とか、ヒステリックとか、そうやって線を引かれてしまいそうだから。

それなら、そんなに難しく考えなければいい、目を閉じてしまえばいい、その方がきっと愛される。
そう思ったことなら何度だってある。
それでも。
それでも私は「見えない」自分ではいたくない。
目を閉じなきゃ生きづらい社会なんて、私は受け入れたくない。
そんな社会を、次の世代に引き継ぎたくない。
何より、そんな自分を、私が愛せない。
「知らない方が幸せだ」なんて、「知らない」でいてほしいひとたちが、そう思わせる社会を作っているだけ。
知らなくても困らないひとたちが、そういう社会を放置してきただけ。
私が目を瞑るんじゃなくて、社会に起きてもらわなきゃ困るのだ。

目を閉じたくなっても、「それでも」という思いで言葉を紡ぎ続ける

だから目を閉じたくなっても、沈黙したくなっても、「それでも」という思いで言葉を紡ぎ続けるんじゃないだろうか。
だってそうするしか、私たちが息をしやすい社会は創れないのだから。
「男の人はそんなもんだ」なんて、哀しい傲慢な決めつけをして、自分にうんざりしたくはない。
信じることに疲れても、本当は信じてみたい。
「どうせ究極は理解されない」と線引きせず、自分を誤魔化して本棚を隠して割り切って付き合うのではなくて、理解し合いたいと、「どうせ」と呟きながら祈っている。
世界を呪わずに、世界を信じて生きたいからこそ、私は違和感を言葉にし続けるのだと思う。

説得する必要はない。
全てを分かってもらわなくたっていい。
攻撃する必要もないし、敵対する必要もないけれど、違和感をおいてけぼりにはしたくない。
今ある世界にはまった方が楽だって知りながら、それでも、わきまえないことを、選ぶ。
日々迷って、傷付いて、葛藤して、絶望して、それでも、と言葉を紡ぐ。
わきまえない女の日常は、たぶんこの繰り返し。
だからきっと、違和感に素直で自分に嘘をつけなくて、未来に誠実なひとのことを、「わきまえない女」と呼ぶのだと思う。